>   >  セガ岩出 敬氏・特別追悼企画〜故人の足跡を辿りながら日本のゲームグラフィックスをふり返る(1)
セガ岩出 敬氏・特別追悼企画〜故人の足跡を辿りながら日本のゲームグラフィックスをふり返る(1)

セガ岩出 敬氏・特別追悼企画〜故人の足跡を辿りながら日本のゲームグラフィックスをふり返る(1)

あえて空気を読まずに何度も色味をチェック

しかし、こうしたこだわりは、ともすれば「頑固さ」にもつながる。楠木氏は「彼の仕事ぶりを一言でいうと『異様に粘る』といった印象でしょうか」と語った。

『パンツァー』での経験を基に、『ツヴァイ』でもエネミーの制作を担当した岩出氏。データを制作するだけでなく、オリジナルのボスキャラクターやエネミーも登場させている。

『パンツァードラグーン ツヴァイ』(1996)©SEGA

「『ツヴァイ』開発中、担当ボスのモデルを他人にはわからないレベルでいつまでも修正していて、さすがにしびれを切らして作業を止めたのを覚えています。商品にとって俯瞰で見た是非は別として、いい加減なものを出したくないという、良い意味での『しつこさ』は強く感じました」。

二木氏と共にGDC 2019でポストモーテムに登壇した吉田氏も、岩出氏の尋常ならざるこだわりについて、こうふり返る。岩出氏の1年先輩として、1992年にセガに入社。『パンツァー』から『AZEL』まで開発に関わった。その後セガを離れるが、『オルタ』開発に際して、再び合流することになる。

「『ツヴァイ』の序盤で地上を走る戦艦などのデータは、岩出君が担当でした。あるとき、セガサターンのPCエミュレータで『ツヴァイ』を遊んで、あまりにテクスチャがきれいなので驚いたことがあります。明らかにテクスチャのサイズが大きすぎるんですよ。そこに様々な描き込みがなされていました」。

ライバル機のPlayStationとちがい3D描画用の専用チップを備えておらず、CPUで疑似的に3DCGを表現していたセガサターン。そのためゲームを実行する上で、CPUがボトルネックになりがちだった。一方でCPUが処理できる範囲であれば、多少リッチなテクスチャでも動いてしまったのではないか......吉田氏はこのように推測する。

また、オブジェクトが破壊されてパーツが地上を転がるようなシーンでも、CGツール上で自分でアニメーションを付けて、手付けでパーツの重さを表現するような演出を1人でやっていたと述べた。「あの頃は1人で何でもやっていた時代だから。たぶんエフェクトのパターンなんかも、自分でドットを打ってつくったことがあるんじゃないかな」。

アーケードに追いつけ、追い越せ。吉田氏は「知らず知らずのうちに周りから煽られていました。今から思えば相当ブラックな環境だったけど、みんな若かったから、残業や徹夜も苦になりませんでした」とふり返る。

『リッジレーサー』(1993)や『スターブレード』(1991)など、他社から次々に3Dゲームでヒットタイトルが出ていたことも、発奮材料だった。新作が出たらみんなでゲームセンターに行って遊んで、同じことを家庭用ゲーム機で実現する方法について考える......そうした想いがテクスチャのこだわりにもつながっていったのだ。

『パンツァードラグーン ツヴァイ』より、戦艦ボスは岩出氏のデザインだ ©SEGA

もっとも、こうしたエピソードもプログラマー視点で見れば、話が少し変わってくる。『パンツァー』から『AZEL』までプログラムを担当し、その後セガを離れてランド・ホーを起ち上げたメンバーたちの話を聞こう。

『パンツァー』と『ツヴァイ』でメインプログラムを担当した須藤順一氏と、『パンツァー』から『AZEL』までプログラムを担当した中西 仁氏は、開口一番、次のように語った。

「開発中、ボスキャラクターのデータを何度ももってくるわけ。ちょっと変えたので、実機でテストさせてくださいって。終盤でこっちも忙しいのに、あんまり何度ももってくるから、いい加減頭に来たことがあります」(中西氏)。

「そうそう。それで、『お前の下手くそな絵は、何回直しても下手くそなままだ』って言ったことがあるんですよ。でも、彼は全然へこたれない。何度もトライしてくるんですね。こいつ、すごいなと思いました。空気を読まないというか。普段から明るい感じで、全然へこまないんですよ」(須藤氏)。

まだテレビがブラウン管の時代だ。デザイナーが作業するPCのモニタとテレビでは、表示される画にちがいがあった。ドットがにじんだり、色味がちがったりしたのだ。一方でデザイナーの中には、ブラウン管の表示特性を見越して元のデータを調整する達人もいた。岩出氏もそこにこだわる一人だった。

ただし、当時はゲームエンジンのような統合開発環境が存在せず、デザイナーがブラウン管上で表示を確認するためには、プログラマーの手を介する必要があった。

すでに制作中のデータはサーバ上で共有されていたが(プロジェクトや制作パートによっては、フロッピーディスクやMOでデータをやりとりする例もあった)、実機上でデータを確認するためには、プログラマーがビルドする必要があった。

サーバ上のデータを読み込み、コンバートしてプログラムに組み込み、数十分かけてビルドして、開発機上で実行する。これでようやくブラウン管上で画が確認できたのだ。色味を修正する場合は、最初からやり直しになる。

しかも、当時はプログラマーがゲームタイトルごとに固有のエンジンを開発していた。画面にポリゴンが表示されるのは、開発が始まってしばらく後のことだ。デザイナーがデータを実機上で確認できる頃には、開発も佳境を迎えている。そんな折に、チェックの度に作業を中断されるのでは、プログラマーも煩わしかっただろう。

もっとも、こうしたワークフローは、当時では当たり前だった。3Dゲームの黎明期で、誰もが手探りで開発を進めていた。

セガに1990年に入社し、AM1研でアーケードゲームを手がけた後、セガサターンの起ち上げとともにコンシューマに移ってきた須藤氏は、「アーケードとちがいコンシューマでは入社2~3年目の若手が中心で、周りに質問できる人もいなかったので、強引につくっていました。今から考えればラッキーでしたね」と語る。

『パンツァー』では十数人だった制作チームが、『ツヴァイ』では20人強に増加していたが、ディレクターという役職はまだ一般的ではなかった。開発チーム全員が役職を超えてアイデアを出し合うのが普通で、今よりも開発チームの関係性が濃密だった。

「みんな若かったし、裏を返すと危なかった。プランナーもデザイナーもプログラマーも、良い意味でバチバチやっていました」(須藤氏)。

セガに1992年に入社し、退社後は須藤氏と共にランド・ホーを牽引してきた中西氏も、「全員が全員、自分たちで良くしようという、そういう感じでした。こうしてふり返ってみると、今、当時の岩出みたいな新人が欲しいですね」と語る。

『パンツァー』は今でこそ当たり前のゲームだが、当時は異色の存在だった。SFファンタジー的な世界観と、レールシューティングの融合という、誰も見たことがないものをつくろうとしていたのだ。

「同じSFモノでも宇宙船などであれば、よりつくりやすかったんですよ。それが生物的な動きを出すことに迫られたので、プログラムとしては相当苦労しました。今になって思えば、その苦労が良かったわけですが、当時はどうしたもんかって感じでした。デザイナー側も岩出をはじめ、みんな必死になってデザインしたり、モーションをつけたりしていました」(須藤氏)。

「『パンツァー』は本当に、形になったのが奇跡のようなタイトルでした。最初は今でいうオープンワールドゲームみたいなことを言ってくるわけです。自由な空間を自由に飛んで、自由に弾を撃つみたいな。言いたいことはわかるけど、どうやってつくるんだと。やりたいこととできることの落としどころを探りながらつくっていました」(中西氏)。

『AZEL-パンツァードラグーンRPG-』©SEGA

同じく『ツヴァイ』でシリーズに合流した二川目 真氏(現ランド・ホー)。続く『AZEL』では、バトルパートのプログラマーとして、エネミー担当だった岩出氏とがっつり組むことになる。

GDC 2019の講演でも語られたように、『AZEL』の開発は『パンツァー』の終了後からスタートしている。『パンツァー』の正統進化である『ツヴァイ』と、世界観やストーリーを充実させ、大作RPGとなった『AZEL』だ。

問題は開発チームで誰も大作RPGの開発経験がなかったことだった。その一方で、既存のRPGに囚われない、新しい挑戦が行われた。中でも試行錯誤がくり返されたのがバトルパートだ。二川目氏は「『AZEL』ではチームが50名程度になり、開発も長期にわたった分、よりバチバチしていました」とふり返った 。

もっとも、こうしたコメントも岩出氏の実力を認めた上でのことだ。「『パンツァードラグーン』の世界観はこうなんだとか。旧世紀の遺物はこういうものなんだということを、ちゃんと理解した上で、自分なりの解釈や、何が正しくて何が間違っているのかという基準を当時からもっていたと思います。そして、他のデザイナーにもそれを共有していました」(二川目氏)。

「同期の他のデザイナーと比べて、岩出の方が客観的なところはあったんじゃなないかな。自分が描いたものが全てではなくて、実際に画面に映ったときにどう見えるかが重要だという点で。テクニカルの方に興味があった印象も受けました」(中西氏)。

この時期、岩出氏と中西氏は連名である特許を提出している。出願番号「特願平6-128181」、発明の名称は「画面切替え方法及びこれを用いたゲーム装置」だ。2Dゲームの画面切り替えを、連続性をもたせて行うというもので、出願日は1994年5月となっている。岩出氏の入社2年目の話で、新人としては異例だ。

特許情報プラットフォームより

「当時、会社が特許を出すことを現場に奨励していたころもあり、一緒に特許を出願しませんかって、岩出の方から話しかけてきたんですよ。当時セガサターンでやっていたことを、共同で出願しました」(中西氏)。

これに限らず、岩出氏は入社直後の1993年7月から1999年9月まで、在籍中に5件の特許を出願している。ここからわかるように、岩出氏は新人の頃から周りを巻き込んでいく積極性を兼ね備えていた。チーム内、特に後輩のデザイナーから慕われていた人物でもあった。

「チームの和を大事にして、若い連中の面倒を見ていました。ゲームクリエイターって、ちょっと変わった人がいるし、特にデザイナーはその傾向が強いけれど、本当にしっかりとした、『常識人』だったと思います」(中西氏)。

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