>   >  バウハウスをテーマにどんなゲームをつくる? 日本とドイツの学生が共同制作で挑んだ「プレイング・バウハウス」発表会レポート
バウハウスをテーマにどんなゲームをつくる? 日本とドイツの学生が共同制作で挑んだ「プレイング・バウハウス」発表会レポート

バウハウスをテーマにどんなゲームをつくる? 日本とドイツの学生が共同制作で挑んだ「プレイング・バウハウス」発表会レポート

ゲーム開発にも通じる「遊・祭・業」の理念とは?

パネルディスカッションの模様

続いて本プロジェクトにかかわった、日独4名の教員によるパネルディスカッションについてレポートしよう。出席者は東京工科大学メディア学部の伊藤彰教氏、三上浩司氏、安原広和氏。ハルツ応用科技大学からドミニク・ビルヘルム氏だ。このうち安原氏はセガで『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』シリーズの開発にゲームデザイナーとしてかかわったことで知られる。一方でビルヘルム氏もUBIを筆頭に10年以上ゲーム開発に携わり、そのうち4年間を日本ですごしたゲームデザイナー出身の教員だ。このように本演習は日独ゲーム開発の知見が活かされた、非常に豪華な内容となった。

シンポジウムは両校のゲーム(開発者)教育の事情共有からはじまった。口火を切ったのは三上氏で、東京工科大学でゲーム教育がスタートした2004年前後を振り返った。当時はPS2の後期で、日本でゲーム教育を行う大学はなく、研究室でゲーム開発の技術を教える程度に留まっていた。一方でゲーム開発のグローバル化や、DirectX、OpenGLといった汎用技術がゲーム開発で主流となる流れが加速。三上氏は「学術的な研究成果を継続的に積み上げていかなければ、今後のゲーム開発が成り立たなくなるという風潮が、日本でも広がっていた」という。

そこでメディア学部では文部科学省の助成を受けつつ、ゲーム開発の未来を担える専門的人材の育成カリキュラムを開発。現在にいたるまで人材教育を続けている。学生は学部の4年間のうち、最初の3年間で様々な科目を履修しつつ、ゲーム開発も学んでいく。本プロジェクトのような海外の大学とのコラボや、企業との共同開発といった授業も、2~3年生むけに用意されたものだ(本演習は2年次の後期で実施)。その後、4年次で卒業研究を行い、社会に出て行くことになる。他にGlobalGameJamの会場をいち早く運営するなど、日本のゲーム研究・教育分野で一定の成果を上げつつ、現在に至っている。

これに対してビルヘルム氏も「ドイツでも日本と同じく、ゲームはアートやメディアの一形態であるという認知が広がるまで、かなり時間がかかった」とあかした。状況が変わってきたのはここ10年ほどの話で、ゲームのユーザー数や市場の拡大などを受けてのことだ。こうしたながれを受けて、ハルツ応用科技大学でも2015年に大学院の修士課程でメディアとゲームデザインに関するコースが発足した。これにはシリアスゲームなど、ゲームが社会的なインパクトを持つようになってきた背景もあった。

同校のゲーム教育の特徴は、ゲーム・動画・VR・ユーザーインターフェイスなどの技術やメディアを総合的に扱う点で、様々なメディア形態が融合している現状を反映してのことだという。様々な分野を学際的に採り入れたバウハウスと同じスタイルというわけだ。海外の大学や企業との協業もさかんで、エアバス・フォルクルワーゲン・NASAなどとシリアスゲームの共同開発を進めるかたわら、エンターテインメントに特化したゲームの研究や教育も行なっていると話した。

左から安原広和氏、三上皓司氏、ドミニク・ビルヘルム氏、伊藤彰教氏

続いて安原氏がバウハウスの想いについて語った。バウハウスが設立された20世紀初頭、欧州ではアール・ヌーボーやキュビズムなど、多彩な芸術運動が誕生した。こうした芸術家がワイマールで開校したバウハウスに集まってきたことが、大きなうねりにつながっていく。きっかけとなったのが、第一次世界大戦の敗北を契機に誕生したワイマール憲法で、ともに1919年のことだ。そこで学内における共通言語になったのが幾何学と数学で、「バウハウスは誰もがわかる普遍的な概念を用いて、まったく新しい表現をつくり出した。まさに革命だった」と評した。

一方で自分たち世代の共通言語は何か。安原氏はそれがプログラムだと指摘する。国や文化がちがっても、プログラマーであればソースコードの中身が理解できる。そして、プログラムによって様々な価値やサービスが生まれ、社会に大きな影響をあたえている。安原氏はゲームもまた、プログラム言語で記述されていること。そして今やゲームは国境や文化を越えた普遍的な存在にまで成長しており、バウハウスともつながっていると説明した。

ビルヘルム氏は演習テーマが「バウハウス」になった理由について語った。まずハルツ応用科技大学があるハルツ市と、バウハウスの校舎があったデッサウ市は、ドイツでも同じザクセン=アンハルト州にあり、地理的なゆかりがあること。バウハウスの理念とゲーム開発がともに学際的な考え方に即していること。そしてイッテンが講義で語り、バウハウスのスローガン的なフレーズにもなった「私たちの遊、私たちの祭、私たちの業」と、ゲーム開発に共通点があること、が主な理由だった。もちろん、バウハウス100周年という要素も大きかったという。

実際、バウハウスでは彫刻・グラフィックデザイン・建築・ドラマツルギー・写真など、様々な芸術様式を統合する、学際的な教育が実施されていた。マイスターの指導のもと、学生が実際にモノづくりを行いながら、知識と技術を体験的に習得。その成果が、いわゆるバウハウス様式に集約されていったのだ。これに対してゲームもグラフィック・アニメーション・オーディオ・ゲームデザインなど、多彩な要素で構成されている。ビルヘルム氏は「3DCGには建築や彫刻の要素もあります。ちがいはゲームがバーチャル空間でつくられているというだけです」と指摘する。

一方、「私たちの遊、私たちの祭、私たちの業」という点はどうか。遊とは文字通り遊びの意味で、イッテンは「何かを達成するためには、遊びの精神が重要で、回り道をしたり、一見関係がないようなことから、新しいアイディアが生まれるかもしれない」と繰り返し話していたという。実際、バウハウスではブロック玩具の原型となる玩具も制作されたほどだ。祭も一人では成立できず、開催には多くの人が参加し、各々の強みを活かすことが重要になる。業は技術やスキルの意味。いずれもゲーム開発と同じというわけだ。

最後に三上氏は「バウハウス」というテーマ自体の優秀性について語った。ゲーム制作ではユーザーを楽しませようとするあまり、いろいろな要素を詰め込んでいく「プラスのゲームデザイン」になりがちだ。これに対して合理主義や機能主義、意味を持った色使いといったバウハウスを象徴する要素は、ゲームのコンセプトを突き詰めていく上でも参考になる。「本質であるゲームの楽しさを機能的・合理的に考えるという意味で、学生にとって基本に立ち戻れるテーマだと思いました」。

また、本演習で学生たちの共通言語となった「英語」が、ともに母国語ではなかった点も重要だったとした。「同じ言葉を喋る集団では、本当はちがう意味で捉えているのに、なんとなく物事を進めてしまって、後からトラブルになることがあります。これが最初からちがう言葉を使う人同士で、なおかつ母国語ではないとなると、本当に同じ意味で物事を認識しているか、常に確認しながら議論を進めていく必要があります」。これが学生にとって大きな学びになるというのだ。

実際、演習に参加した学生たちからも、ゲーム開発もさることながら、英語コミュニケーションのストレスについて声があがった。自分の思ったことをストレートに伝えられない上に、打ち合わせもSkypeなどを介して実施し、時差の問題もあった。同世代の学生が日本語でコミュニケーションを行う国内のモノづくりとは、まったく異なる世界が広がっている......。こうした経験を体験できた点が、学生にとって新鮮に映ったようだった。

両校はすでに2020年度のプロジェクトについても、話を進めているという。テーマは未定だが、東京で開催される予定の国際的なスポーツイベントについても、候補にあがっているようだ。開発ツールの整備などで、ゲーム開発自体の負荷が軽減する中、ゲーム教育の主眼も「完成させる」から、「考えてつくる」に移行しつつある。バウハウスの教育テーマがモノづくりに紐付く実践教育の推進だったように、本プロジェクトが国際的に活躍できるゲーム開発者の育成につながることが期待される。

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