技術系同人誌の裾野を拡げたい
それでは、こうした技術系同人誌の高まりを、即売会の主催者側はどのように捉えているのだろうか。技術書典の生みの親ともいえる、同人誌サークル「TechBooster」の日高正博氏に話を伺った。大学卒業後、大手家電メーカーやベンチャー企業を経て、2017年2月からメルカリで働いているエンジニアだ。Androidの国際カンファレンス「DroidKaigi」の運営なども手がけており、Androidのユーザーコミュニティ内で良く知られた人物でもある。
日高正博氏
PC-9821を中学生のときに購入し(当時のOSはWindows3.1だった)、ゲーム好きからプログラミングの関心を深めた、いわば「王道コース」を経てエンジニアになった日高氏。社会人になってからもサークルでAndroidの技術系同人誌をつくり、コミックマーケットで頒布していた。いわゆる「壁サークル」として人気を集めていたが、いくつか課題もあった。「お盆と正月に開催されるので、社会人は参加しにくい」、「規模が大きく、子連れでは参加しにくい」、「主流のマンガ・アニメ関連のように、技術系同人誌も、もっと多くの人に手に取ってもらいたい」などだ。
そこで「即売会がないなら、自分たちでつくろう」と、電子書籍オンリーの出版社である達人出版会との併催で、初回開催したのが2016年6月のこと。秋葉原の通運会館で開催され、大成功を収めたが、このままでは継続開催が難しいと判断。運営効率化のために、さまざまなシステムを自主開発した。会場を秋葉原UDXに移して行われた第2回目では、参加サークルが一気に170サークルに増加。第5回目からは池袋サンシャインシティに会場を移し、第7回目では初の2フロアでの開催となる。
技術書典で驚かされるのは、その規模感だ。技術書典6では約20万冊が搬入され、そのうち約11万部が購入されたという。1サークルあたりの頒布部数は平均で約200部にのぼり、来場者1人あたりの購入冊数は10部以上で、平均購入金額は約1万円。1日で約1億円の現金が動いた計算だ。1日だけ開店する、技術書オンリーの巨大書店というイメージだろう。出展サークルや来場者の属性も広がり、近年では子連れの参加者も目立つ様になった。そこで第7回では、会場内にはじめて託児所も設置するという。
「技術書は普通の書籍とちがい、どんどん内容が古びていきます。読者には最新の情報を知りたいという強いニーズがあります」と日高氏は語る。これに対して書き手側にあるのが、情報を互いに共有する姿勢や、勉強会コミュニティの文化だ。「以前から書籍は著者にとって名刺代わりという意味合いがありました。技術系同人誌はこのコミュニティ版だとも言えます。『薄い本』であればもち運びも楽だし、見せるのも簡単ですしね」。
技術書典6の風景
実際に日高氏は年間20冊前後の技術系同人誌を出版している。即売会に出展するだけでなく、商業図書やWebメディア、雑誌への寄稿など、媒体を問わずさまざまな情報発信に取り組んでいるとのことだ。一方でTechBoosterでは、サークルのメンバーが集まって原稿をもちより、120ページ前後の合本をつくって販売するスタイルをとっている。メインはAndroidの技術情報だが、最近は機械学習などのAIに関する話題や、Webの最新技術、Go言語などのサーバー系、モバイル全般など、テーマが広がっている。
もっともIT系企業でもゲーム業界と同じく、業務で得た知見と、自分の知見の切り分け問題が発生する可能性があるという。しかし、IT系企業ではオープンソースの技術を採用することが多い。同人誌も技術そのものではなく、技術の使い方が中心になるため、問題になることは少ないのだという。こうしたエンジニアのシェア文化は、古くはLinux、近年ではAndroidやWeb関連など、さまざまな技術の広がりを通して、日本でも一般的になってきた。技術系同人誌もそうした中から生まれてきた。
市場が成熟して、モノからコトへと消費の中心が移行している点もポイントだ。「音楽CDが不振でも、ライブやフェスが活況なように、即売会に参加すること自体が、読者にとって価値に相当するのだと思います」。著者に直接会って交流できることがポイントで、同人誌は技術習得の実利を兼ねた良い媒介というわけだ。大量のエンジニアが集まると、そこに企業も吸い寄せられていく。日経新聞に所属するエンジニアチーム「Nikkei Enginner Team」が技術書典4から技術書頒布を始めたのは好例で、主催者側でも、もはや一般サークルと企業サークルの区別はつけていないという。一方でPRの場として活用したい企業による協賛も増加中だ。
技術書典では技術系同人誌の制作セミナーも実施している
このほか技術書典では即売会だけでなく、技術系同人誌のつくり方に関する勉強会も行なっている。技術書典の約4割が新規出展サークルで、技術系同人誌をつくりたいというニーズが高まっているからだ。日高氏はこの背景に、副業解禁をはじめとした、働き方に関する社会の変化もあるのではないかと示唆した。会社以外に自分の立ち位置を確立することが、自分のキャリア形成にもつながる。こうした変化をエンジニアが敏感に感じとり、即売会に参加。そこから自分も同人誌を創ってみたくなる......というわけだ。
「技術系同人誌は自分の技術の成果物で、いちど本をつくって買ってもらうと、その体験が癖になります。自分を振り返ってみても、エンジニアとしてのキャリアの一部になっています。今後も技術書典では、あらゆる技術書を受け入れ、著者や読者に出会いの場を提供していきたいですね」と日高氏は語る。根底にながれるのは「市場にないなら自分たちでつくる」という考え方で、これは今回取材した全員に共通するものだ。この世にないものを新たにつくり出す、エンジニアならではの姿勢が感じられた。