<2>念願のハリウッド3DCG業界へ就職するも、初日で帰国!?
――山本さんのデモリールの中にキリンビールのCM映像もありましたが、これは日本にいたときのお仕事ですか?
山本:そうですね、このリールの実写映像は全部日本で制作したものです。僕は最初、アメリカでは実写をやりたかったんです。僕が就職したPDI/ドリームワークスは当時実写映画も制作していたのですが、映画『マイノリティ・リポート』(2002)を最後に実写をやらなくなっていたので、僕はこっちに来てから3DCGアニメ―ションをやるようになったんです。
「demoreel 2015 gentaro yamamoto」山本氏のデモリール
――山本さんは日本ではオムニバス・ジャパンにお勤めでしたが、当初から実写映画の制作を指向されていたのでしょうか?
山本:僕の場合はCMですね。『サントリーローヤル・ガウディ編』(1984)という、サグラダ・ファミリアに奇妙な生物のキャラクターが出てくる不思議な空間を描いたCMがあって、それを小学生のときに見たのが映像に興味をもったきっかけです。その後、日清食品のCM『カップヌードル hungry?』(1992)にまた衝撃を受けて、CM関係の本を読んで東北新社制作と知り、そこからCMや映像の勉強をしていったというかたちです。
そして東北新社の就職面接で「3DCGでこういうことをやりたい」と言ったことからグループ会社のオムニバス・ジャパンの存在を教えてもらい、OB訪問をしたところ偶然にも同じ大学の先輩がプロデューサーをしていて、そのときは2次募集も終わっていたのですが何とか受けさせてもらって、採用していただきました。当時はバブルの頃で、アルバイトで3DCGは触っていたのですがUNIXシステムはまったくわからず、そんな僕でも新入社員研修でゼロから教えてもらえたという太っ腹な会社でした。今ではなかなかない環境ですね。
――オムニバス・ジャパンでの6年間はどのようなお仕事をされましたか?
山本:アシスタントの頃から本当にいろいろな仕事をしました。デモリールのキリンビールCMも代表作の1つですし、他にも家庭教師のトライやソニーのCMなど様々です。日本では、3DCGアーティストはゼネラリストとして育てられますので、撮影に入るとカメラマンのライティングの位置を記録するところから始まり、会社に帰って3DCGでモデリング、テクスチャリング、ライティング、リギングと全部やって、コンポジットをしてOKをもらったら、その素材を編集システムに合った素材に分けて、リテイクが出たらそれに対応するところまで、プロデューサーと一緒に全てを担当をしていました。そうやってひと通りやっていたので、ハリウッドでの就職活動では全ての部署を受けました。ハリウッドではご存知の通り各分野のスペシャリスト制なので、朝から晩まで一日中、いろんな部署のスーパーバイザーがやってきて面接をされました。欠員の状況やタイミングによってはモデラーになっていたかもしれません。
――渡米の話を伺いたいのですが、どういった理由からだったのでしょうか?
山本:やはりそこにハリウッドがあるから、ですよ(笑)。CM業界で5~6年やっていると誰しも外に目を向けるようになります。オムニバス・ジャパンでもフリーランスになられる方がいたり、リーダーになって現場を離れる方もいます。僕もそう言われたのですが、やはり現場が良かった。当時の日本の映像業界はどうしてもアメリカの後追いという状況で、「いつかはハリウッドで」という思いが心のどこかにあり続けていました。
就職して数年目のある日、オムニバス・ジャパンともよく仕事をしていたPDIの共同設立者リチャード・チャン氏(※)が視察のため来日するということがあり、そこで僕がアテンドを任されました。なぜ僕かというと、父が商社の仕事をしていた関係で僕が2歳のときにアメリカに移住し、高校生まで各地で暮らしていたので、英語が話せたんです。それでチャンさんをアテンドして付いて回っていました。
※:リチャード・チャン/Richard Chuang
PDI(Pacific Data Images)創業者の1人であり、現・Cloudpic創業者兼CEO。アカデミー科学技術賞を1997年と2015年の2回受賞している
山本:そして忘れもしない大雨の冬の日のことです。チャンさんとオムニバス・ジャパンのスタジオを回った後、プロデューサーが帰るときに「これでお茶をお出しして」とお小遣いを渡してくれて、運良く1時間ばかり2人でお話をさせていただく機会に恵まれました。チャンさんは当時から大物で、普通だったら僕みたいな人間がこんなに長い時間直接お話できるなんてありえないことだったんです。でもそこでアメリカの3DCG業界のお話や仕事のしかたなどいろいろと伺い、僕としてはその全てが目からウロコでした。最後に「LAに来ることがあったら声をかけて」と名刺までいただいたんです。もちろん社交辞令だったんですが、僕は本気に受け取って、その後チャンさんにデモリールを送り続けました。そうしたらあるとき、「PDIで働くことに興味はありますか?」という返事を人事の方からいただいて。
そうしてSIGGRAPHの開催時に渡米して面接を受けたのですが、「実写をやりたい」と言ったら先ほどのように「これからは3Dアニメの時代だからもう実写はやらない」と言われ、落とされてしまいました。でもこのとき面白かったのが、チャンさんの名前を出すとみんなビックリするんですね。「何で知り合いなの?」って(笑)。ハリウッドも結構クローズなところがあって、要は人脈の世界なんです。それは強みとしてありますね。
そして、その後も2年間くらいずっとリールを送り続けていたところ、10月に電話が来て当時のライティングスーパーバイザーとの電話面接の後、サンフランシスコに行って面接をしました。当時は『シュレック2』 の制作の真っ只中で、とにかく人が足りないということで世界中からスタッフを採用していたんです。それで気に入っていただいて11月には入社することになりました。アメリカは「興味を示すということはいつでもOKということ」という文化で、声がかかったらすぐにでも働き始めるんです。だからオムニバス・ジャパンを大急ぎで円満に退職させてもらってアメリカに渡りました。
――そんな大急ぎのなか、就労ビザはどのようにされたんですか?
山本:そこでもひとつドラマがありまして。高校生のときに父がグリーンカード(永住権)を申請して運良く当選していたんです。だから、面接のときも「グリーンカードをもっています」と言っていて、向こうもその気でいたら、研修初日に弁護士が来て「このグリーンカードは失効している」と。なぜかというと、グリーンカードは本来アメリカに住むためのものですから、1年以上国外にいると失効してしまうんです。それと知らずに僕は大学以降日本で10年も暮らしていたので、とっくに失効していたんですね。壮行会まで開いてもらってアメリカに来たのに、そこでいったん帰国するハメに(笑)。本当だったらそこでクビになってもおかしくありません。でもありがたいことに会社が「H-1B」(高度な専門技術者向けの就労ビザ)を出してくれて、翌年の1月16日に晴れて再入社することができました。そこから7年間H-1Bで働いて、会社を通して5年前にグリーンカードをもらいました。H-1Bのままだと、クビになったら帰国しなくてはいけないのですが、グリーンカードがあるとアメリカにいながら次の会社を探せるので、このちがいは大きいです。