>   >  偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?
偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?

偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?

<3>偶然入社したバンプレスト

CGW:大学卒業後はバンプレストに新卒で入社されたんですよね。どういった就職活動だったんですか?

帆足:あの頃はバブルだったので、受けた会社は全部内定がとれました。

CGW:就職活動はゲーム業界とか、映像業界が中心だったんですか?

帆足:いえ、いわゆるSEの会社です。九州の大手企業も受けました。あと、なぜか長崎放送のアナウンサーも受けました。さすがにアナウンサーは落ちましたね。

CGW:上京の理由として、俳優志望という話もありましたね。

帆足:そうですね。在学中に雑誌『宇宙船』の文通コーナーを介して、円谷プロダクションの人と知り合って、スーツアクターを手伝うようになったんですよ。遊園地のイベントとか、テレビのバラエティとかに出ていましたね。

CGW:そうやってアルバイトをしつつ、お金を貯めて映像制作をして。

帆足:まあ、アルバイトと言われると、スーツアクターはみんな嫌がると思いますけど、実際そうですね。そこから東映の戦隊モノのオーディションなどに行ってました。そんなこんなで卒業が迫ってきたんですが、どうやっても食える感じがしなかったので、大学で専攻したSE系の企業を中心に就職活動をしたんです。

CGW:一応、"固い道を"的な。

帆足:ただ、内定が取れたら取れたで、だんだんモヤモヤしてきたんですよ。ちょうどその頃って、就活の時期になると分厚い就職情報誌が山ほどアパートに送られてきたじゃないですか。ある時それがドカっと床に落ちて、ぱらっと開いたページにたまたまウルトラマンが載っていて。それがバンプレストだったんです。

CGW:運命的な出会いですね。

帆足:そこで「ここにしよう」と思って履歴書を送って、そのまま受かりました。その頃は全然有名じゃなかったんですよ。その二年後くらいにクレーンゲームの景品で大ヒットするんですけどね。

CGW:ウルトラマンを素材に使ってくれて良かったですね。

帆足:そのウルトラマンの中に入っていたのも、僕が一緒にやっていた頃の先輩だったんです。今のウルトラマンでアクション監督をされている方です。それもまた運命でしたね。

CGW:ようやく謎が解けました。なんでアクターさんの知り合いが多いんだろうなあと。

帆足:あとはゲームの流れもありました。高校の時に雑誌『ファミコン通信(現ファミ通)』でゲームクリエイターコンテストという企画があって、バンダイが主催していたんです。そこにスプラッターゲームの企画書を書いて応募して、優勝したんですよ。

CGW:なんと!

帆足:その時の審査員が橋本名人(※4)で、そこからバンダイさんとつながるようになって。その当時、集英社系のゲームは橋本さんが仕切られていて、バンダイがゲーム化していたんですよ。マシリト(※5)さんとかもその時にお会いして。

※4:橋本名人 橋本真司氏。現スクウェア・エニックス・ホールディングス専務執行役員
※5:マシリト 鳥嶋和彦氏。現白泉社代表取締役社長


CGW:おお、業界レジェンドの名前が続々と。

帆足:橋本さんはその後、スクウェア(現:スクウェア・エニックス)に行かれたんです。僕もその後にスクウェアに行くので、一緒になりました。社内で開口一番「何しに来たの?」って言われましたね。結婚式には橋本さんにも出てもらいました。

CGW:今でこそ、みなさん大物ばかりですが、当時だとつながれたんですね。

帆足:いやいや、ネットがなかったから、つながるのは大変でしたよ。全部、偶然の産物です。

CGW:ゲーム企画のコンペはなぜ出そうと思われたんですか?

帆足:高校生だったので、時間が余っていたんですよね。最初はエニックスが主催していたコンテストに出したんですが、準備不足がたたって落ちちゃって。2回目は時間があったので、じっくり出せたんですよ。映画『13日の金曜日』がモチーフでした。

CGW:かなり早いですね。その後、スプラッタもののアクションゲームは各社から発売されましたし、最近はインディゲームでも多いですし。

帆足:みんな僕のをパクってますね(笑)。

CGW:バンプレストに入社されたのは1992年ですか?

帆足:そうですね。当時はコンシューマのキャラクターゲームはバンダイが囲っていて、バンダイだとウルトラマンとかガンダムとか、作品単位でゲームが作れたんです。バンプレストは『スーパーロボット大戦』のように、いろんな世界観がごちゃ混ぜだったら出せるという契約だったんですね。その一方でアーケードはバンダイが手を出していなくて、アーケードでキャラクターゲームをつくるラインが立ち上がったんです。それで新卒だった僕がそこに配属されたというながれですね。

CGW:今はみんな仲良くバンダイナムコグループですが、そういう時代もありましたね。それにしても、最初はアーケードだったんですね。

帆足:ちょうど『ストリートファイターII』が流行っていた頃で、キャラクターを乗せれば儲かるんじゃないの、という。ちなみに、そのアイディアは後に『機動戦士ガンダム』という格闘ゲームとなって実際に世に出ました。最初は4人しかいなかったかな。僕と妻と先輩と役員だった上司。

CGW:奥様もバンプレストご出身で......デザイナーだったんですか?

帆足:いえ、何もしていないです。ゲームもキャラも興味がなくて。入社後も「ガンダムって何?」とか言ってましたから。

CGW:バブル時代らしい入社動機ですね。帆足さんは何をリリースされましたか?

帆足:年に4〜5本はつくっていましたね。ウルトラマンとか、仮面ライダーとかのゲームで、実制作は開発会社に全部まかしちゃっていたので、僕は舵取りとパブリシティが中心でした。いちおう肩書き的にはプロデューサーでしたけど、手は動かしていないわけです。そのため、けっこう時間に余裕があったんですよ。そんなころ、ちょうどバンプレストの隣のビルに「Studio Dews(スタジオ・デュース)」というチームが入っていて、そこで3DCGをやっていたんです。

CGW:どんなタイトルをつくっていたんですか?

帆足:スタジオ・デュース自体、バンプレストの社内3DCGチームだったんですよ。なのでメインは自社ゲームのCMですね。あとはアニメ『機動警察パトレイバー』のオープニング映像をつくったり。だからプリレンダーCGです。あの頃はまだゲームはドット絵の時代でしたからね。

CGW:でも、それもまた運命ですね。

帆足:あまりに格好良かったので、ずっとそこに通っていて、2年くらい経ったとき上司に移動を進言したんですよ。そうしたら「お前には無理だ」とバッサリ。みんな専門学校を出ているからっていわれて。3DCGってその頃はもっと敷居が高くて、専門職で難しいものだと思われていたんですよ。

CGW:完全に技術職でしたもんね。

パンプレスト在職時代(1993〜1999)に手がけたタイトルの販促物

<4>スクウェアで3DCGゲーム開発に参加



帆足:そんなこんなで悶々としている中、会社から遊技機の方に移動してくれという話が出て、潮時だと思って退職したんです。

CGW:そこからスクウェアに行かれるわけですか?

帆足:そのちょっと前に、スタジオ・デュースのほぼ全員のメンバーが、『ファイナルファンタジーVII』の開発に参加するため、スクウェアに出向するんです。そのバーターでチョコボの版権をスクウェアからバンプレストが借りて、『チョコボの不思議なダンジョン』がつくられたんですけどね。このデザイナーを務めたのが、同じバンプレストにいた板鼻利幸君です。今はスクウェア・エニックスで偉いディレクターになっています。

CGW:それを知っていて辞められたんですか?

帆足:いや、後から知りました。それで、スタジオ・デュースを追いかけようと思ってスクウェアに応募したんです。ちょうど『FF VII』の開発が始まるくらいですね。スタジオ・デュースに出入りしていたんで、3DCG制作についても、なんとなくのワークフローだったり、単語は知っていたんですよ。

CGW:ポートフォリオをつくったりしましたか?

帆足:たしかウルトラホーク1号が二子山の秘密基地から出撃するムービーでつくって持って行きました。あとは知っている単語をハッタリかまして入りました(笑)。

CGW:ムービーまで作られたんですね。

帆足:バンプレスト時代にツールの使い方を教えてもらいながらつくりました。そもそも当時は3DCGを触れる人が少なかったから、ツールのオペレーションができれば比較的簡単だったんですよ。

CGW:スクウェアで最初にたずさわったタイトルはなんでしたか?

帆足:プリレンダーCGは自分のスキルだと、まだ無理だったんです。だから実機の方(ゲーム内で使用されるリアルタイムCG)に行きました。それで参加したのが『フロントミッションオルタナティブ』です。たまたま運が良くてロボモノでした。ロボットのデザインからモデリングからアニメーションからイベントから、全部やっていましたね。

CGW:その次がもうスクウェアUSAで映画『ファイナルファンタジー』なんですよね?

帆足:その前に『FF IX』の制作チームにいたんですが、所属はスクウェアUSAで、ホノルルにいましたね。もっともスクウェアUSAの話は知らなくて。結婚前に彼女の実家に遊びにいったら、義母さんが新聞を広げて「あら、スクウェアってハワイに会社をつくるらしいわよ」って。「そうなの?」って会社に聞いたらそのとおりで、募集を待ってエントリーしました。

CGW:バンプレストの時からずっと、ガチエントリーなんですね。

帆足:そうですね。面接を受けて、合格して、ハワイで暮らしはじめたのが1998年の2月くらいです。結婚式の直後だったのかな。妻と一緒に移住する形で。いつも2月が人生の激変期なんですよ。後に会社を立ち上げたのも2月でしたし。

CGW:環境が変わって大変だったでしょう。

帆足:でも、だいたいのことは会社がサポートしてくれましたし。自分はお金を一銭も出していません。当時は枠が足りなくて、就労ビザ以外で来ている人もいましたね。税関で止められて、もめたりして。『FF VII』の開発が終わって、スタジオ・デュースのメンバーも全員行ったんですよ。やっとそこで同じ仕事に合流できました。

CGW:映画が終わるまでハワイにいらっしゃったんですか?

帆足:ハワイで『FF IX』を2年間つくって、そこから映画の方に移って、足かけ4年いました。『FF IX』チームは完成後に全員帰国する予定だったんですが、ハワイに残りたかったので、映画チームに合流させてもらいました。その時のSetup and Propのボスが小高忠男(※6)さんだったので、お願いして引き上げてもらいました。

※6:小高忠男 1959年、千葉県出身。東京工学院芸術専門学校(現:東京工学院専門学校)のCG科専任講師を経て、オムニバス・ジャパンに入社。プロのCG制作者としてのキャリアをスタートさせる。その後、バンプレスト、SQUARE USA、バンダイ(現バンダイナムコゲームス)などで多数のプロジェクトに参加。フリーランスのモデリング・スーパーバイザーとして活躍中。

CGW:英語はどうやって?

帆足:現地ですね。今はちょっとマジメに学校に行ったりしていますが、当時は何も下地がなくて。もともと英語は全然ダメだったんですよ。模試とかでも自分の後ろには10人くらいしかいなくて。専門用語が多いから何とかなっているところもありますし、スクウェアUSA時代はコーディネーターと称して通訳もいましたからね。

CGW:長女がお生まれになったのもハワイですよね。仕事とプライベートが充実されていて、すごいですね。もとから自然体なんですかね?

帆足:もともとねらって何かすることはないですね。人生に計画性というものが無縁なので(笑)。もっとも、環境もよかったですね。午後6時に帰宅したり、土日もちゃんと休んだり、働き方が日本と全然違いましたから。社員の奥さん同士も仲がよくて。

CGW:そういう職場環境はどうやって生まれたんですか?

帆足:社風が完全にアメリカナイズされてました。もともと外国人が多い職場で、彼らのマインドがそうだったので、それにつられて。あとは社員以外に知り合いがいなかったんですよ。いってみれば、見ず知らずの集団で無人島に行ったようなもんじゃないですか。他にやることがなくて、一緒にご飯を食べに行ってたりするうちに、だんだんコミュニティができていって。

CGW:商社マンの駐在員じゃないけど。

帆足:そういう感じですね。会社にもよく妻や子どもが来たりしていました。

<5>アメリカで活躍して帰国、そしてVW部に参加

CGW:帆足さんの生き様と合っていたんですね。映画では何をされたんですか?

帆足:小高さんの部署で、背景と小道具のモデリングを担当していました。がっつりとプリレンダーCGをやったのは、そこがはじめてですね。

CGW:それで映画が終わって、スタジオがなくなって。スクウェアUSAといえば、当時は人材の宝庫でしたから、リクルーターがいっぱいきたでしょう。

帆足:ゲームをやっていたので、2002年にエレクトロニック・アーツ(以下、EA)が拾ってくれました。本当は映画をやりたかったんですが、そっちは誰も拾ってくれなくて。サンフランシスコの本社に2年ほどいました。2002年くらいの話です。

CGW:当時はVFXも今みたいに3DCGを多用する時代ではなかったですしね。

帆足:そうですね。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズで、敵クリーチャーのモデリングなどをしていました。

CGW:帰国されようと思われた理由は何でしたか?

帆足:会社はグリーンカードを出すと言ってくれたんですが、長女が幼稚園に入る頃になって、妻が帰国したいと言いだして。自分としても、向こうの幼稚園はちょっとなと思いましたし。運良く日本支社の女の子が来て、日本にもスタジオができると教えてくれたんです。そっちに行きたいから紹介してってお願いして、異動というかたちで帰国しました。だから、それもお金がかかってないですね。引っ越しで1回もお金を出したことがない。

CGW:運も才能のうちと言いますが、すごいですよね。それで、帰国されてしばらくEAジャパンスタジオで仕事されたんですね。

帆足:EAジャパンスタジオには、けっこう在籍していましたよ。

CGW:当時、CGWORLDでもライティングの記事を書いていただきましたよね(※7)。帆足さんのブログをたまたま見つけて、誰だかわからないままオファーさせていただきました。

※7:CGWORLD vol.95(2006年7月号)第2特集「シーン別ライティングセオリー」の作例記事が本誌への初めての寄稿であった。

帆足:ちょうど長女に続いて双子が生まれた頃ですね。

CGW:それで、EAの後にスクウェア・エニックスに戻られて。

帆足:その頃、格闘ゲームをEAジャパンスタジオでつくっていたんですよ。ただ、PS3からPS4への移行期で、PS4の仕様が全然きまらなくて、開発がしばらく止まってしまって。そこはアメリカ企業なので、らちがあかなかったらすぐにスタジオを閉めちゃうところがありますよね。実際にだんだんと雲行きが怪しくなっていきました。

CGW:そうだったんですね。

帆足:それで、もう外資系はやめようと。スクウェア・エニックスのビジュアルワークス部に入ろうと。そこで面接を受けたところ、無事に復職することになりました。実は当時のEAとスクウェア・エニックスのオフィスはすごく近かったので、自分の機材を台車につんで引っ越しました。

CGW:それはすごいですね。2000年代前半でも、即戦力ならどんどん採用されていたんですか?

帆足:そうですね。当時のビジュアルワークスは即戦力を積極的に採用していたと思います。

CGW:ビジュアルワークス部だから、プリレンダーのムービーを担当されたんですか?

帆足:最初にやったのが『クライシス コア -ファイナルファンタジーVII-』ですね。PSP向けのRPGで、プリレンダーCGをやりまっした。ところがEAに入ってから、ずっと実機でリアルタイムの方をやっていたので、プリレンダーCGに関する技法をすっかり忘れてしまっていました(苦笑)。

CGW:同じプリレンダーCGでも開発手法が変わっていたでしょうし。ちょうどHDRが使われはじめて、今のフォトリアル系の流れがはじまったころですね。

帆足:ホントに全然わからなくて。社内のマニュアルを読んでも、人に聞いてもよくわからないんですよ。みんな「物理が、物理が」って言っていました。自分がつくったものを同じ環境に放り込んでも、それまでと全然結果が違って、こりゃまずいなと思いましたね。徹夜作業の連続でした。

CGW:同僚がつくったシーンファイルをこっそり見たりとか。

帆足:それもやりましたし、あの頃はちょうどミッドガルの列車をつくっていたんですよ。何回やってもうまくいかなくて、トライアンドエラーを重ねました。いちおうプライドもあるので、しょぼいモノを出したらまずいなと。でも理論はよくわかってなくて、その時は力業でやりましたね。こう描けばこうレンダリングされるという傾向をなんとなくつかみつつ、全部描いてました。いまだに良くわかってないですけどね。

CGW:どの辺にコツがありましたか?

帆足:テクスチャの描き方ですね。描きすぎるとうそっぽくなってしまうので、そのさじ加減というか。レンダリングしては直してを繰り返していくうちに、朝がくるというのを何日か繰り返しました。物理的な計算に対して、自分の体を慣らしていった感じです。

CGW:3DCGって次から次に新しい技術が出てくるじゃないですか。どうやってキャッチアップされているんですか? 最近だと数年前からZBrushが出て、スカルプト・モデリングが広がってきていますよね。Keyshotなども普及しはじめました。

帆足:いちおう触りはしますよね。でも仕事で求められないと使わないじゃないですか。今のところ求められていないんですよね。これをやらないと死んじゃうかも、というところまでになると使うかも。最近ようやくArnoldを使い始めました。

CGW:レンダラ周りだとGPUレンダラか、レッドシフトか、みたいな流れもあります。

帆足:どんなに時代が変わっても新しい技法やツールについては周りの詳しい人に聞けばいいと思っています。実際に困ったことがあれば聞くようにしています。ただ、必要となったら実際に買わないといけないのが辛いです。どれも安くはないので。

次ページ:
<6>映画制作に転身、エキストラでもアピール

Profileプロフィール

帆足タケヒコ/Takehiko Hoashi(studio picapixels)

帆足タケヒコ/Takehiko Hoashi(studio picapixels)

モデリング・アーティスト&コンセプト・デザイナー。スーツアクター、ゲームプロデューサーを経て、デジタルアーティストに転身。国内ならびに海外のゲーム開発や映画制作などの現場を経て、2013年に国内でいち早くモデリング専門会社studio picapixelsを設立。コンセプトデザインからモデリング、質感までをトータルで行う。数々の日本を代表する映画やCM、PVに参加している。

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