>   >  偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?
偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?

偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?

メカモデラーとして、近年ではメカのデザインやコンセプトアートまで手がけるなど、日本を代表する映画やCM、PV制作に携わってきた帆足タケヒコ氏(studio picapixels)。キャリアの半分をゲーム業界で重ねつつ、そこから映像系に転身し、八面六臂の活躍を続けている。そんな帆足氏のクリエイター人生や、モノづくり哲学とは何か。幼少期からの思い出をふり返ってもらった。

INTERVIEW_小野憲史 / Kenji Ono、沼倉有人 / Arihito Numakura(CGWORLD)
EDIT_山田桃子 / Momoko Yamada
PHOTO_弘田 充 / Mitsuru Hirota

<1>大分のプラモ少年、ガンプラにハマる

CGWORLD(以下、CGW):帆足さんはメカモデラーとして長年業界で活躍されていて、最近はコンセプトや設定まで手がけるなど活動の幅を広げられていますが、そもそもの原点は何でしたか?

studio picapixels/帆足タケヒコ(以下、帆足):3DCGの中でも特にメカが好きなんです。そういう意味ではガンプラ(『機動戦士ガンダム』シリーズのプラモデル)が原点でしょうね。ハマったのは小学校5年生くらいの頃かな。

CGW:なるほど、そういう世代なんですね。

帆足:1970年生まれなので、まさに小学生の頃はガンプラブームまっただ中でした。

CGW:ご兄弟は?

帆足:三人兄弟の長男です。下が3歳、その下が2歳下で、全員男性ですね。

CGW:ご実家は?

帆足:父親は高校の教員で、兼業農家でした。大分県出身で、そこで高校卒業まで過ごしました。もっとも僕が生まれた頃はまだ教員ではなくて、ボウリング(掘削)の作業員をしていましたね。公務員試験に受かって教員免許を取るまで、その仕事を続けていたんじゃないかな。当時は東京に住んでいたんですが、横浜ドリームランドの建設などをやっていたそうです。おじいちゃんだか、ひいおじいちゃんだかの体調が悪くなって、実家に帰ったんですよ。

CGW:そうなんですね。

帆足:ちなみに教科も造園土木でした。だから、あまり他にいない先生なんですよ。箱庭みたいなものがいつも家にあって、ちょっとしたジオラマみたいになっていて。

CGW:それは珍しいですね。

帆足:そういえば、学校の課題で庭の設計図などを生徒に描かせていましたね。よく家で採点していました。いらなくなった紙をもらって、裏にラクガキを描いて遊んで。そういったことがホントの原点になっているかもしれませんね。

CGW:家に製図台があったりして。

帆足:そういう立派なものはなくて、定規とロットリングだけでした。建造物はちゃんとした製図道具が必要になりますが、日本庭園でしたからね。

CGW:いずれにせよ、今の仕事にも影響を与えていそうですね。

帆足:たしかに、オヤジは家で何かモノをつくっていましたね。一番ビックリしたのは車をつくったこと。廃車をもらってきて、パーツを寄せ集めて、ジープみたいなものをつくっていました。でも、ボディが全部ベニヤでできているんです。

CGW:公道を走れない系ですね(笑)

帆足:そうですね、田んぼで走ってましたね。

CGW:お母さんも、そういった活動はされていたのですか?

帆足:いや、特にそういうことはありませんでしたが、目が良かったですね。2人の良いところはもらっている気がします。

大分での幼少時代。大自然にかこまれて育ったことが伝わってくる

CGW:弟さんたちは、いかがでしたか?

帆足:全然ちがう道を歩みました。営業と介護職です。

CGW:話を戻すと、ガンプラは当時、学校で流行っていましたよね。

帆足:ちょうど漫画『コミックボンボン』が創刊されて、『プラモ狂四郎』がブレイクして。ガンプラをリアルに汚すみたいなテクニックが紹介されて、一世を風靡したんですよね。それこそいまバンダイにいる川口克己(※1)さんとか、マックスファクトリーのMAX渡辺さん(※2)たちがモデラーとして活躍されていた頃で。川口さんはストリームベースのメンバーとして漫画にも登場していましたよね。

※1:川口克己氏 株式会社バンダイ社員。玩具・模型の企画やプロモーションを担当
※2:MAX渡辺氏 ガレージキットメーカーマックスファクトリー代表


CGW:「パーフェクトガンダム」とかですね。懐かしい。

帆足:そうなんですよ。その頃に出版されたムック『How to build Gundam』、『How to build Gundam 2』(※3)のクオリティがすごくて、子ども心に相当衝撃を受けました。アニメロボットが泥で汚れていたり、エッジの部分で塗装がはがれて地金が出ていたり。そもそもアニメロボットが汚れるなんて考えもしないじゃないですか。あれが、プラモデルにのめり込んだきっかけになりました。

※3:『How to build Gundam』、『How to build Gundam 2』:『月刊ホビージャパン』別冊。1981年7月と1982年5月に発売されたガンダム模型本

CGW:学校でもそういったクラブがあったんですか?

帆足:田舎すぎて中学の部活動は野球部か卓球部しかなかったです。どっちかに入らないといけない。野球は丸坊主になる必要があって、死んでも嫌だなと思って。それで卓球部に入りました。

CGW:人数も......。

帆足:1学年が1クラスしかなくて、同級生が30人で、全校生徒が100人いない中学校でした。

CGW:ではガンプラづくりも独学で......。

帆足:雑誌『ホビージャパン』を読むと、いろんな道具が出てくるんですが、売ってませんでしたからね。自分でいろいろと創意工夫をしました。こういう塗り方をするなら、こういう筆に違いないとか。

CGW:お父さんからアドバイスとかなかったんですか?

帆足:あったかもしれませんが、もう覚えていません。そういえば、一時期ラジコンづくりを一緒にやっていました。時には弟たちも一緒にガンプラをつくっていました。

CGW:じゃあ家庭がサークル活動だったんですね。

帆足:家に勉強机とは別にプラモデル用の机があって、ずっとそこに座っていましたね。親にはシンナー中毒と言われました(笑)

CGW:応募などはしなかったんですか?

帆足:『コミックボンボン』のプラモコンテストに出展して、九州チャンピオンになったことがあります。中学の時だったかな? 受賞式とかは特になくて、誌面に載っただけでしたけどね。

CGW:それだけでもすごいですね。では高校を卒業するまで、学校での部活動とは別にガンプラづくりに明け暮れて。近所に友達はいませんでしたか?

帆足:各々の家が離れすぎていて、近所に二人しか友達がいなかったんですよ。一人は仲が良くなくて(笑)、もう一人とはよく遊んでいました。川で泳いだり、山に行ったり、雪が降れば斜面で滑っていたり。田舎の子どもがやるような遊びはたいてい。

小学生のときにガンプラを作り始めたことが現在のアーティストとしての活動の原点だという。中学生のときには『コミックボンボン』(1981〜2007)が主催したコンテストに応募したところ、九州チャンピオンに輝いたそうだ

<2>自主映画の制作に熱中

CGW:そんな帆足少年が映像の道に進もうと思ったきっかけは何でしたか?

帆足:高校の時に自主制作で映画を撮り始めたんですよ。ちょうど仮面ライダーとかにハマった時期で。友達を巻き込んで。自分が脚本を書いて、絵コンテを切って、主役をやって。

CGW:監督&主演の先駆けですね。

帆足:当時はビデオカメラを持っている家が少なかったですしね。とても高くて手が出なくて、オヤジに買ってもらいました。民生用のBETACAM(以下、ベーカム)のビデオカメラで、オヤジもよく家族行事とかを撮影していましたね。そういうものは高額でも買ってくれたんです。他にもパソコンを買ってくれたかな。「これからは、こういうものが必要になる」と言って。どちらも自分が使いたかっただけだと思うんですが。

CGW:いいお父さんですね(笑)。

帆足:要は新しもの好きなんですよ。

CGW:でも、それがきっかけで今の仕事につながっているわけで。

帆足:そうですね。映画づくりが楽しくて、仕事にしたいなと。でも、何の情報もなくて。とりあえず東京の大学に行けば何とかなるかなと。あとは撮るだけじゃなくて、出演する方にも興味があって、それもあって上京したかったんですよね。

CGW:大学選びはどんな風に?

帆足:正直、東京に行ければ、どこでもよかったんです。オヤジも東京農大出身で、農大を受けろといわれました。うちは農家だったし。それでもいいかなと。それから、ちょうど農大の系列校で東京情報大学という大学ができて。あとは直接映像に関係したところで、大阪芸大もあるなと。全部受けて全部受かって、東京情報大学に進学しました。ちょうど自分が1期生でした。

CGW:理由は何でしたか?

帆足:パンフレットにベーカムの編集機が掲載されていたんです。これはなにか映像がつくれそうだぞと。

CGW:東京情報大学の開設が1988年となっていますね。学部はなんだったんですか?

帆足:経営情報学部です。要はプログラムを勉強して、システムエンジニアになる学部でした。「情報」という言葉が出始めた頃です。COBOLとかFORTRUNとかの授業がありましたね。さっきの編集機も、大学の設備として、こういうのがありますよという程度でした。

CGW:それがゆるやかに3DCGにつながったんですか?

帆足:つながってないですね(笑)。

CGW:お父さんは反対されなかったんですか?

帆足:しなかったですね。ただ、公務員になれとは良く言われました。公務員試験の参考書をやたら送ってきたり。いっさい読みませんでしたが。

CGW:ちなみに高校から上京された方や、映像志望の方はいらっしゃいましたか?

帆足:いなかったですね。常々独立独歩で。新しい大学だったので、サークルとかもなくて。

CGW:映像制作は続けられていたんですか?

帆足:夏休みに帰省して高校の友達とつくっていました。それ以外の時期は仕込みですね。脚本を書いて絵コンテを切って衣装をつくって、機材を買うためにバイトをして。カメラとか、全部自分で買ってましたから。後輩の映画つくりも手伝ったりして、だいたい5〜6本くらいつくったかな?

CGW:全部特撮ヒーローものですか?

帆足:そうですね。何かしらSF要素も入れて。もうベーカムのテープでしか残ってないんですよね。デジタル化しようにも、どっかでビデオデッキを買ってこないと。実家に保管していたら、いつの間にか捨てられていました。

CGW:実写モノなんですよね。特撮部分をアナログでどうつくるかですか?

帆足:とはいえ、8mmとちがってビデオだから、合成とかはできないんですよ。

CGW:その場でがんばって、燃やすとか......。

帆足:まあ、そんな感じです。

CGW:ちなみにゼミとかは?

帆足:ゼミは映像系でした。詳しいことは忘れちゃいましたが。会計なんちゃらとか、経営ほにゃららとか、どれも意味がわからなくて。一個だけ映像云々というのがあったので、そこにしたんですが、ゼミの思い出はゼロです。

高校時代には仲間たちと自主制作でアクション映画を撮り始める。この活動を通じて、「東京へ行って、映画の仕事にたずさわりたい」と思うようになったそうだが、大学進学後も年に1本は制作していたという。「マスターは実家に保管してあるのですが、民生用ベーカムのため再生することができません(苦笑)」

次ページ:
<3>偶然入社したバンプレスト

Profileプロフィール

帆足タケヒコ/Takehiko Hoashi(studio picapixels)

帆足タケヒコ/Takehiko Hoashi(studio picapixels)

モデリング・アーティスト&コンセプト・デザイナー。スーツアクター、ゲームプロデューサーを経て、デジタルアーティストに転身。国内ならびに海外のゲーム開発や映画制作などの現場を経て、2013年に国内でいち早くモデリング専門会社studio picapixelsを設立。コンセプトデザインからモデリング、質感までをトータルで行う。数々の日本を代表する映画やCM、PVに参加している。

studiopicapixels.com

スペシャルインタビュー