メカモデラーとして、近年ではメカのデザインやコンセプトアートまで手がけるなど、日本を代表する映画やCM、PV制作に携わってきた帆足タケヒコ氏(studio picapixels)。キャリアの半分をゲーム業界で重ねつつ、そこから映像系に転身し、八面六臂の活躍を続けている。そんな帆足氏のクリエイター人生や、モノづくり哲学とは何か。幼少期からの思い出をふり返ってもらった。

INTERVIEW_小野憲史 / Kenji Ono、沼倉有人 / Arihito Numakura(CGWORLD)
EDIT_山田桃子 / Momoko Yamada
PHOTO_弘田 充 / Mitsuru Hirota

<1>大分のプラモ少年、ガンプラにハマる

CGWORLD(以下、CGW):帆足さんはメカモデラーとして長年業界で活躍されていて、最近はコンセプトや設定まで手がけるなど活動の幅を広げられていますが、そもそもの原点は何でしたか?

studio picapixels/帆足タケヒコ(以下、帆足):3DCGの中でも特にメカが好きなんです。そういう意味ではガンプラ(『機動戦士ガンダム』シリーズのプラモデル)が原点でしょうね。ハマったのは小学校5年生くらいの頃かな。

CGW:なるほど、そういう世代なんですね。

帆足:1970年生まれなので、まさに小学生の頃はガンプラブームまっただ中でした。

CGW:ご兄弟は?

帆足:三人兄弟の長男です。下が3歳、その下が2歳下で、全員男性ですね。

CGW:ご実家は?

帆足:父親は高校の教員で、兼業農家でした。大分県出身で、そこで高校卒業まで過ごしました。もっとも僕が生まれた頃はまだ教員ではなくて、ボウリング(掘削)の作業員をしていましたね。公務員試験に受かって教員免許を取るまで、その仕事を続けていたんじゃないかな。当時は東京に住んでいたんですが、横浜ドリームランドの建設などをやっていたそうです。おじいちゃんだか、ひいおじいちゃんだかの体調が悪くなって、実家に帰ったんですよ。

CGW:そうなんですね。

帆足:ちなみに教科も造園土木でした。だから、あまり他にいない先生なんですよ。箱庭みたいなものがいつも家にあって、ちょっとしたジオラマみたいになっていて。

CGW:それは珍しいですね。

帆足:そういえば、学校の課題で庭の設計図などを生徒に描かせていましたね。よく家で採点していました。いらなくなった紙をもらって、裏にラクガキを描いて遊んで。そういったことがホントの原点になっているかもしれませんね。

CGW:家に製図台があったりして。

帆足:そういう立派なものはなくて、定規とロットリングだけでした。建造物はちゃんとした製図道具が必要になりますが、日本庭園でしたからね。

CGW:いずれにせよ、今の仕事にも影響を与えていそうですね。

帆足:たしかに、オヤジは家で何かモノをつくっていましたね。一番ビックリしたのは車をつくったこと。廃車をもらってきて、パーツを寄せ集めて、ジープみたいなものをつくっていました。でも、ボディが全部ベニヤでできているんです。

CGW:公道を走れない系ですね(笑)

帆足:そうですね、田んぼで走ってましたね。

CGW:お母さんも、そういった活動はされていたのですか?

帆足:いや、特にそういうことはありませんでしたが、目が良かったですね。2人の良いところはもらっている気がします。

大分での幼少時代。大自然にかこまれて育ったことが伝わってくる

CGW:弟さんたちは、いかがでしたか?

帆足:全然ちがう道を歩みました。営業と介護職です。

CGW:話を戻すと、ガンプラは当時、学校で流行っていましたよね。

帆足:ちょうど漫画『コミックボンボン』が創刊されて、『プラモ狂四郎』がブレイクして。ガンプラをリアルに汚すみたいなテクニックが紹介されて、一世を風靡したんですよね。それこそいまバンダイにいる川口克己(※1)さんとか、マックスファクトリーのMAX渡辺さん(※2)たちがモデラーとして活躍されていた頃で。川口さんはストリームベースのメンバーとして漫画にも登場していましたよね。

※1:川口克己氏 株式会社バンダイ社員。玩具・模型の企画やプロモーションを担当
※2:MAX渡辺氏 ガレージキットメーカーマックスファクトリー代表


CGW:「パーフェクトガンダム」とかですね。懐かしい。

帆足:そうなんですよ。その頃に出版されたムック『How to build Gundam』、『How to build Gundam 2』(※3)のクオリティがすごくて、子ども心に相当衝撃を受けました。アニメロボットが泥で汚れていたり、エッジの部分で塗装がはがれて地金が出ていたり。そもそもアニメロボットが汚れるなんて考えもしないじゃないですか。あれが、プラモデルにのめり込んだきっかけになりました。

※3:『How to build Gundam』、『How to build Gundam 2』:『月刊ホビージャパン』別冊。1981年7月と1982年5月に発売されたガンダム模型本

CGW:学校でもそういったクラブがあったんですか?

帆足:田舎すぎて中学の部活動は野球部か卓球部しかなかったです。どっちかに入らないといけない。野球は丸坊主になる必要があって、死んでも嫌だなと思って。それで卓球部に入りました。

CGW:人数も......。

帆足:1学年が1クラスしかなくて、同級生が30人で、全校生徒が100人いない中学校でした。

CGW:ではガンプラづくりも独学で......。

帆足:雑誌『ホビージャパン』を読むと、いろんな道具が出てくるんですが、売ってませんでしたからね。自分でいろいろと創意工夫をしました。こういう塗り方をするなら、こういう筆に違いないとか。

CGW:お父さんからアドバイスとかなかったんですか?

帆足:あったかもしれませんが、もう覚えていません。そういえば、一時期ラジコンづくりを一緒にやっていました。時には弟たちも一緒にガンプラをつくっていました。

CGW:じゃあ家庭がサークル活動だったんですね。

帆足:家に勉強机とは別にプラモデル用の机があって、ずっとそこに座っていましたね。親にはシンナー中毒と言われました(笑)

CGW:応募などはしなかったんですか?

帆足:『コミックボンボン』のプラモコンテストに出展して、九州チャンピオンになったことがあります。中学の時だったかな? 受賞式とかは特になくて、誌面に載っただけでしたけどね。

CGW:それだけでもすごいですね。では高校を卒業するまで、学校での部活動とは別にガンプラづくりに明け暮れて。近所に友達はいませんでしたか?

帆足:各々の家が離れすぎていて、近所に二人しか友達がいなかったんですよ。一人は仲が良くなくて(笑)、もう一人とはよく遊んでいました。川で泳いだり、山に行ったり、雪が降れば斜面で滑っていたり。田舎の子どもがやるような遊びはたいてい。

小学生のときにガンプラを作り始めたことが現在のアーティストとしての活動の原点だという。中学生のときには『コミックボンボン』(1981〜2007)が主催したコンテストに応募したところ、九州チャンピオンに輝いたそうだ

<2>自主映画の制作に熱中

CGW:そんな帆足少年が映像の道に進もうと思ったきっかけは何でしたか?

帆足:高校の時に自主制作で映画を撮り始めたんですよ。ちょうど仮面ライダーとかにハマった時期で。友達を巻き込んで。自分が脚本を書いて、絵コンテを切って、主役をやって。

CGW:監督&主演の先駆けですね。

帆足:当時はビデオカメラを持っている家が少なかったですしね。とても高くて手が出なくて、オヤジに買ってもらいました。民生用のBETACAM(以下、ベーカム)のビデオカメラで、オヤジもよく家族行事とかを撮影していましたね。そういうものは高額でも買ってくれたんです。他にもパソコンを買ってくれたかな。「これからは、こういうものが必要になる」と言って。どちらも自分が使いたかっただけだと思うんですが。

CGW:いいお父さんですね(笑)。

帆足:要は新しもの好きなんですよ。

CGW:でも、それがきっかけで今の仕事につながっているわけで。

帆足:そうですね。映画づくりが楽しくて、仕事にしたいなと。でも、何の情報もなくて。とりあえず東京の大学に行けば何とかなるかなと。あとは撮るだけじゃなくて、出演する方にも興味があって、それもあって上京したかったんですよね。

CGW:大学選びはどんな風に?

帆足:正直、東京に行ければ、どこでもよかったんです。オヤジも東京農大出身で、農大を受けろといわれました。うちは農家だったし。それでもいいかなと。それから、ちょうど農大の系列校で東京情報大学という大学ができて。あとは直接映像に関係したところで、大阪芸大もあるなと。全部受けて全部受かって、東京情報大学に進学しました。ちょうど自分が1期生でした。

CGW:理由は何でしたか?

帆足:パンフレットにベーカムの編集機が掲載されていたんです。これはなにか映像がつくれそうだぞと。

CGW:東京情報大学の開設が1988年となっていますね。学部はなんだったんですか?

帆足:経営情報学部です。要はプログラムを勉強して、システムエンジニアになる学部でした。「情報」という言葉が出始めた頃です。COBOLとかFORTRUNとかの授業がありましたね。さっきの編集機も、大学の設備として、こういうのがありますよという程度でした。

CGW:それがゆるやかに3DCGにつながったんですか?

帆足:つながってないですね(笑)。

CGW:お父さんは反対されなかったんですか?

帆足:しなかったですね。ただ、公務員になれとは良く言われました。公務員試験の参考書をやたら送ってきたり。いっさい読みませんでしたが。

CGW:ちなみに高校から上京された方や、映像志望の方はいらっしゃいましたか?

帆足:いなかったですね。常々独立独歩で。新しい大学だったので、サークルとかもなくて。

CGW:映像制作は続けられていたんですか?

帆足:夏休みに帰省して高校の友達とつくっていました。それ以外の時期は仕込みですね。脚本を書いて絵コンテを切って衣装をつくって、機材を買うためにバイトをして。カメラとか、全部自分で買ってましたから。後輩の映画つくりも手伝ったりして、だいたい5〜6本くらいつくったかな?

CGW:全部特撮ヒーローものですか?

帆足:そうですね。何かしらSF要素も入れて。もうベーカムのテープでしか残ってないんですよね。デジタル化しようにも、どっかでビデオデッキを買ってこないと。実家に保管していたら、いつの間にか捨てられていました。

CGW:実写モノなんですよね。特撮部分をアナログでどうつくるかですか?

帆足:とはいえ、8mmとちがってビデオだから、合成とかはできないんですよ。

CGW:その場でがんばって、燃やすとか......。

帆足:まあ、そんな感じです。

CGW:ちなみにゼミとかは?

帆足:ゼミは映像系でした。詳しいことは忘れちゃいましたが。会計なんちゃらとか、経営ほにゃららとか、どれも意味がわからなくて。一個だけ映像云々というのがあったので、そこにしたんですが、ゼミの思い出はゼロです。

高校時代には仲間たちと自主制作でアクション映画を撮り始める。この活動を通じて、「東京へ行って、映画の仕事にたずさわりたい」と思うようになったそうだが、大学進学後も年に1本は制作していたという。「マスターは実家に保管してあるのですが、民生用ベーカムのため再生することができません(苦笑)」

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<3>偶然入社したバンプレスト

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<3>偶然入社したバンプレスト

CGW:大学卒業後はバンプレストに新卒で入社されたんですよね。どういった就職活動だったんですか?

帆足:あの頃はバブルだったので、受けた会社は全部内定がとれました。

CGW:就職活動はゲーム業界とか、映像業界が中心だったんですか?

帆足:いえ、いわゆるSEの会社です。九州の大手企業も受けました。あと、なぜか長崎放送のアナウンサーも受けました。さすがにアナウンサーは落ちましたね。

CGW:上京の理由として、俳優志望という話もありましたね。

帆足:そうですね。在学中に雑誌『宇宙船』の文通コーナーを介して、円谷プロダクションの人と知り合って、スーツアクターを手伝うようになったんですよ。遊園地のイベントとか、テレビのバラエティとかに出ていましたね。

CGW:そうやってアルバイトをしつつ、お金を貯めて映像制作をして。

帆足:まあ、アルバイトと言われると、スーツアクターはみんな嫌がると思いますけど、実際そうですね。そこから東映の戦隊モノのオーディションなどに行ってました。そんなこんなで卒業が迫ってきたんですが、どうやっても食える感じがしなかったので、大学で専攻したSE系の企業を中心に就職活動をしたんです。

CGW:一応、"固い道を"的な。

帆足:ただ、内定が取れたら取れたで、だんだんモヤモヤしてきたんですよ。ちょうどその頃って、就活の時期になると分厚い就職情報誌が山ほどアパートに送られてきたじゃないですか。ある時それがドカっと床に落ちて、ぱらっと開いたページにたまたまウルトラマンが載っていて。それがバンプレストだったんです。

CGW:運命的な出会いですね。

帆足:そこで「ここにしよう」と思って履歴書を送って、そのまま受かりました。その頃は全然有名じゃなかったんですよ。その二年後くらいにクレーンゲームの景品で大ヒットするんですけどね。

CGW:ウルトラマンを素材に使ってくれて良かったですね。

帆足:そのウルトラマンの中に入っていたのも、僕が一緒にやっていた頃の先輩だったんです。今のウルトラマンでアクション監督をされている方です。それもまた運命でしたね。

CGW:ようやく謎が解けました。なんでアクターさんの知り合いが多いんだろうなあと。

帆足:あとはゲームの流れもありました。高校の時に雑誌『ファミコン通信(現ファミ通)』でゲームクリエイターコンテストという企画があって、バンダイが主催していたんです。そこにスプラッターゲームの企画書を書いて応募して、優勝したんですよ。

CGW:なんと!

帆足:その時の審査員が橋本名人(※4)で、そこからバンダイさんとつながるようになって。その当時、集英社系のゲームは橋本さんが仕切られていて、バンダイがゲーム化していたんですよ。マシリト(※5)さんとかもその時にお会いして。

※4:橋本名人 橋本真司氏。現スクウェア・エニックス・ホールディングス専務執行役員
※5:マシリト 鳥嶋和彦氏。現白泉社代表取締役社長


CGW:おお、業界レジェンドの名前が続々と。

帆足:橋本さんはその後、スクウェア(現:スクウェア・エニックス)に行かれたんです。僕もその後にスクウェアに行くので、一緒になりました。社内で開口一番「何しに来たの?」って言われましたね。結婚式には橋本さんにも出てもらいました。

CGW:今でこそ、みなさん大物ばかりですが、当時だとつながれたんですね。

帆足:いやいや、ネットがなかったから、つながるのは大変でしたよ。全部、偶然の産物です。

CGW:ゲーム企画のコンペはなぜ出そうと思われたんですか?

帆足:高校生だったので、時間が余っていたんですよね。最初はエニックスが主催していたコンテストに出したんですが、準備不足がたたって落ちちゃって。2回目は時間があったので、じっくり出せたんですよ。映画『13日の金曜日』がモチーフでした。

CGW:かなり早いですね。その後、スプラッタもののアクションゲームは各社から発売されましたし、最近はインディゲームでも多いですし。

帆足:みんな僕のをパクってますね(笑)。

CGW:バンプレストに入社されたのは1992年ですか?

帆足:そうですね。当時はコンシューマのキャラクターゲームはバンダイが囲っていて、バンダイだとウルトラマンとかガンダムとか、作品単位でゲームが作れたんです。バンプレストは『スーパーロボット大戦』のように、いろんな世界観がごちゃ混ぜだったら出せるという契約だったんですね。その一方でアーケードはバンダイが手を出していなくて、アーケードでキャラクターゲームをつくるラインが立ち上がったんです。それで新卒だった僕がそこに配属されたというながれですね。

CGW:今はみんな仲良くバンダイナムコグループですが、そういう時代もありましたね。それにしても、最初はアーケードだったんですね。

帆足:ちょうど『ストリートファイターII』が流行っていた頃で、キャラクターを乗せれば儲かるんじゃないの、という。ちなみに、そのアイディアは後に『機動戦士ガンダム』という格闘ゲームとなって実際に世に出ました。最初は4人しかいなかったかな。僕と妻と先輩と役員だった上司。

CGW:奥様もバンプレストご出身で......デザイナーだったんですか?

帆足:いえ、何もしていないです。ゲームもキャラも興味がなくて。入社後も「ガンダムって何?」とか言ってましたから。

CGW:バブル時代らしい入社動機ですね。帆足さんは何をリリースされましたか?

帆足:年に4〜5本はつくっていましたね。ウルトラマンとか、仮面ライダーとかのゲームで、実制作は開発会社に全部まかしちゃっていたので、僕は舵取りとパブリシティが中心でした。いちおう肩書き的にはプロデューサーでしたけど、手は動かしていないわけです。そのため、けっこう時間に余裕があったんですよ。そんなころ、ちょうどバンプレストの隣のビルに「Studio Dews(スタジオ・デュース)」というチームが入っていて、そこで3DCGをやっていたんです。

CGW:どんなタイトルをつくっていたんですか?

帆足:スタジオ・デュース自体、バンプレストの社内3DCGチームだったんですよ。なのでメインは自社ゲームのCMですね。あとはアニメ『機動警察パトレイバー』のオープニング映像をつくったり。だからプリレンダーCGです。あの頃はまだゲームはドット絵の時代でしたからね。

CGW:でも、それもまた運命ですね。

帆足:あまりに格好良かったので、ずっとそこに通っていて、2年くらい経ったとき上司に移動を進言したんですよ。そうしたら「お前には無理だ」とバッサリ。みんな専門学校を出ているからっていわれて。3DCGってその頃はもっと敷居が高くて、専門職で難しいものだと思われていたんですよ。

CGW:完全に技術職でしたもんね。

パンプレスト在職時代(1993〜1999)に手がけたタイトルの販促物

<4>スクウェアで3DCGゲーム開発に参加



帆足:そんなこんなで悶々としている中、会社から遊技機の方に移動してくれという話が出て、潮時だと思って退職したんです。

CGW:そこからスクウェアに行かれるわけですか?

帆足:そのちょっと前に、スタジオ・デュースのほぼ全員のメンバーが、『ファイナルファンタジーVII』の開発に参加するため、スクウェアに出向するんです。そのバーターでチョコボの版権をスクウェアからバンプレストが借りて、『チョコボの不思議なダンジョン』がつくられたんですけどね。このデザイナーを務めたのが、同じバンプレストにいた板鼻利幸君です。今はスクウェア・エニックスで偉いディレクターになっています。

CGW:それを知っていて辞められたんですか?

帆足:いや、後から知りました。それで、スタジオ・デュースを追いかけようと思ってスクウェアに応募したんです。ちょうど『FF VII』の開発が始まるくらいですね。スタジオ・デュースに出入りしていたんで、3DCG制作についても、なんとなくのワークフローだったり、単語は知っていたんですよ。

CGW:ポートフォリオをつくったりしましたか?

帆足:たしかウルトラホーク1号が二子山の秘密基地から出撃するムービーでつくって持って行きました。あとは知っている単語をハッタリかまして入りました(笑)。

CGW:ムービーまで作られたんですね。

帆足:バンプレスト時代にツールの使い方を教えてもらいながらつくりました。そもそも当時は3DCGを触れる人が少なかったから、ツールのオペレーションができれば比較的簡単だったんですよ。

CGW:スクウェアで最初にたずさわったタイトルはなんでしたか?

帆足:プリレンダーCGは自分のスキルだと、まだ無理だったんです。だから実機の方(ゲーム内で使用されるリアルタイムCG)に行きました。それで参加したのが『フロントミッションオルタナティブ』です。たまたま運が良くてロボモノでした。ロボットのデザインからモデリングからアニメーションからイベントから、全部やっていましたね。

CGW:その次がもうスクウェアUSAで映画『ファイナルファンタジー』なんですよね?

帆足:その前に『FF IX』の制作チームにいたんですが、所属はスクウェアUSAで、ホノルルにいましたね。もっともスクウェアUSAの話は知らなくて。結婚前に彼女の実家に遊びにいったら、義母さんが新聞を広げて「あら、スクウェアってハワイに会社をつくるらしいわよ」って。「そうなの?」って会社に聞いたらそのとおりで、募集を待ってエントリーしました。

CGW:バンプレストの時からずっと、ガチエントリーなんですね。

帆足:そうですね。面接を受けて、合格して、ハワイで暮らしはじめたのが1998年の2月くらいです。結婚式の直後だったのかな。妻と一緒に移住する形で。いつも2月が人生の激変期なんですよ。後に会社を立ち上げたのも2月でしたし。

CGW:環境が変わって大変だったでしょう。

帆足:でも、だいたいのことは会社がサポートしてくれましたし。自分はお金を一銭も出していません。当時は枠が足りなくて、就労ビザ以外で来ている人もいましたね。税関で止められて、もめたりして。『FF VII』の開発が終わって、スタジオ・デュースのメンバーも全員行ったんですよ。やっとそこで同じ仕事に合流できました。

CGW:映画が終わるまでハワイにいらっしゃったんですか?

帆足:ハワイで『FF IX』を2年間つくって、そこから映画の方に移って、足かけ4年いました。『FF IX』チームは完成後に全員帰国する予定だったんですが、ハワイに残りたかったので、映画チームに合流させてもらいました。その時のSetup and Propのボスが小高忠男(※6)さんだったので、お願いして引き上げてもらいました。

※6:小高忠男 1959年、千葉県出身。東京工学院芸術専門学校(現:東京工学院専門学校)のCG科専任講師を経て、オムニバス・ジャパンに入社。プロのCG制作者としてのキャリアをスタートさせる。その後、バンプレスト、SQUARE USA、バンダイ(現バンダイナムコゲームス)などで多数のプロジェクトに参加。フリーランスのモデリング・スーパーバイザーとして活躍中。

CGW:英語はどうやって?

帆足:現地ですね。今はちょっとマジメに学校に行ったりしていますが、当時は何も下地がなくて。もともと英語は全然ダメだったんですよ。模試とかでも自分の後ろには10人くらいしかいなくて。専門用語が多いから何とかなっているところもありますし、スクウェアUSA時代はコーディネーターと称して通訳もいましたからね。

CGW:長女がお生まれになったのもハワイですよね。仕事とプライベートが充実されていて、すごいですね。もとから自然体なんですかね?

帆足:もともとねらって何かすることはないですね。人生に計画性というものが無縁なので(笑)。もっとも、環境もよかったですね。午後6時に帰宅したり、土日もちゃんと休んだり、働き方が日本と全然違いましたから。社員の奥さん同士も仲がよくて。

CGW:そういう職場環境はどうやって生まれたんですか?

帆足:社風が完全にアメリカナイズされてました。もともと外国人が多い職場で、彼らのマインドがそうだったので、それにつられて。あとは社員以外に知り合いがいなかったんですよ。いってみれば、見ず知らずの集団で無人島に行ったようなもんじゃないですか。他にやることがなくて、一緒にご飯を食べに行ってたりするうちに、だんだんコミュニティができていって。

CGW:商社マンの駐在員じゃないけど。

帆足:そういう感じですね。会社にもよく妻や子どもが来たりしていました。

<5>アメリカで活躍して帰国、そしてVW部に参加

CGW:帆足さんの生き様と合っていたんですね。映画では何をされたんですか?

帆足:小高さんの部署で、背景と小道具のモデリングを担当していました。がっつりとプリレンダーCGをやったのは、そこがはじめてですね。

CGW:それで映画が終わって、スタジオがなくなって。スクウェアUSAといえば、当時は人材の宝庫でしたから、リクルーターがいっぱいきたでしょう。

帆足:ゲームをやっていたので、2002年にエレクトロニック・アーツ(以下、EA)が拾ってくれました。本当は映画をやりたかったんですが、そっちは誰も拾ってくれなくて。サンフランシスコの本社に2年ほどいました。2002年くらいの話です。

CGW:当時はVFXも今みたいに3DCGを多用する時代ではなかったですしね。

帆足:そうですね。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズで、敵クリーチャーのモデリングなどをしていました。

CGW:帰国されようと思われた理由は何でしたか?

帆足:会社はグリーンカードを出すと言ってくれたんですが、長女が幼稚園に入る頃になって、妻が帰国したいと言いだして。自分としても、向こうの幼稚園はちょっとなと思いましたし。運良く日本支社の女の子が来て、日本にもスタジオができると教えてくれたんです。そっちに行きたいから紹介してってお願いして、異動というかたちで帰国しました。だから、それもお金がかかってないですね。引っ越しで1回もお金を出したことがない。

CGW:運も才能のうちと言いますが、すごいですよね。それで、帰国されてしばらくEAジャパンスタジオで仕事されたんですね。

帆足:EAジャパンスタジオには、けっこう在籍していましたよ。

CGW:当時、CGWORLDでもライティングの記事を書いていただきましたよね(※7)。帆足さんのブログをたまたま見つけて、誰だかわからないままオファーさせていただきました。

※7:CGWORLD vol.95(2006年7月号)第2特集「シーン別ライティングセオリー」の作例記事が本誌への初めての寄稿であった。

帆足:ちょうど長女に続いて双子が生まれた頃ですね。

CGW:それで、EAの後にスクウェア・エニックスに戻られて。

帆足:その頃、格闘ゲームをEAジャパンスタジオでつくっていたんですよ。ただ、PS3からPS4への移行期で、PS4の仕様が全然きまらなくて、開発がしばらく止まってしまって。そこはアメリカ企業なので、らちがあかなかったらすぐにスタジオを閉めちゃうところがありますよね。実際にだんだんと雲行きが怪しくなっていきました。

CGW:そうだったんですね。

帆足:それで、もう外資系はやめようと。スクウェア・エニックスのビジュアルワークス部に入ろうと。そこで面接を受けたところ、無事に復職することになりました。実は当時のEAとスクウェア・エニックスのオフィスはすごく近かったので、自分の機材を台車につんで引っ越しました。

CGW:それはすごいですね。2000年代前半でも、即戦力ならどんどん採用されていたんですか?

帆足:そうですね。当時のビジュアルワークスは即戦力を積極的に採用していたと思います。

CGW:ビジュアルワークス部だから、プリレンダーのムービーを担当されたんですか?

帆足:最初にやったのが『クライシス コア -ファイナルファンタジーVII-』ですね。PSP向けのRPGで、プリレンダーCGをやりまっした。ところがEAに入ってから、ずっと実機でリアルタイムの方をやっていたので、プリレンダーCGに関する技法をすっかり忘れてしまっていました(苦笑)。

CGW:同じプリレンダーCGでも開発手法が変わっていたでしょうし。ちょうどHDRが使われはじめて、今のフォトリアル系の流れがはじまったころですね。

帆足:ホントに全然わからなくて。社内のマニュアルを読んでも、人に聞いてもよくわからないんですよ。みんな「物理が、物理が」って言っていました。自分がつくったものを同じ環境に放り込んでも、それまでと全然結果が違って、こりゃまずいなと思いましたね。徹夜作業の連続でした。

CGW:同僚がつくったシーンファイルをこっそり見たりとか。

帆足:それもやりましたし、あの頃はちょうどミッドガルの列車をつくっていたんですよ。何回やってもうまくいかなくて、トライアンドエラーを重ねました。いちおうプライドもあるので、しょぼいモノを出したらまずいなと。でも理論はよくわかってなくて、その時は力業でやりましたね。こう描けばこうレンダリングされるという傾向をなんとなくつかみつつ、全部描いてました。いまだに良くわかってないですけどね。

CGW:どの辺にコツがありましたか?

帆足:テクスチャの描き方ですね。描きすぎるとうそっぽくなってしまうので、そのさじ加減というか。レンダリングしては直してを繰り返していくうちに、朝がくるというのを何日か繰り返しました。物理的な計算に対して、自分の体を慣らしていった感じです。

CGW:3DCGって次から次に新しい技術が出てくるじゃないですか。どうやってキャッチアップされているんですか? 最近だと数年前からZBrushが出て、スカルプト・モデリングが広がってきていますよね。Keyshotなども普及しはじめました。

帆足:いちおう触りはしますよね。でも仕事で求められないと使わないじゃないですか。今のところ求められていないんですよね。これをやらないと死んじゃうかも、というところまでになると使うかも。最近ようやくArnoldを使い始めました。

CGW:レンダラ周りだとGPUレンダラか、レッドシフトか、みたいな流れもあります。

帆足:どんなに時代が変わっても新しい技法やツールについては周りの詳しい人に聞けばいいと思っています。実際に困ったことがあれば聞くようにしています。ただ、必要となったら実際に買わないといけないのが辛いです。どれも安くはないので。

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<6>映画制作に転身、エキストラでもアピール

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<6>映画制作に転身、エキストラでもアピール

CGW:それで、ビジュアルワークス部を辞めてフリーになって、studio picapixelsとして法人化されて5年経ちましたね。

帆足映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』が7年前なので、やめてそれくらいはたっているんですよね。

CGW:『ヤマト』はフリーランスで参加されたんですか?

帆足:実は当時はまだビジュアルワークス部にいて、帰ってから自宅で作業をやっていました。やっぱり映画制作に参加したかったんですよ。

CGW:なるほど。

帆足:ちょうどスクウェアUSA時代に隣に座っていたのが、いまマットペインターとして活躍されている林 隆之さんで。林さんって山崎 貴監督と阿佐ヶ谷美術専門学校つながりなんですよ。僕が帰国した頃はまだ、山崎監督も映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を撮る前で。林さんが紹介してくれるっていうんで、一緒に食事をしたりしました。

CGW:そんなつながりがあったんですね。

帆足:そうですね。山崎監督って、できる人にフランクに仕事を頼みたがるんです。すぐに依頼が来て、その時は自動車をちょこっとつくりました。ビジュアルワークス部に入ってすぐのころだから、2007年だったかな。

CGW:そこで面識ができて。

帆足:もっとも、その時はちょっと会って食事しただけだったんで、山崎監督もあまり覚えてなかったと思うんですね。そこで山崎組のエキストラに応募して、何度も現場に参加して、アピールを続けました。

CGW:3DCGを活かした映画制作に参加したいと思われたんですか?

帆足:それもありましたけど、そもそも山崎監督の人柄がおもしろかったので、仲良くなりたかったんです。人って、そんなに用事もないのに会わないじゃないですか。まだ飲みに行くという関係でもなかったし。それで『ALWAYS 三丁目の夕日』の第一作からエキストラに出て、なんとなく顔と名前を覚えてもらって、映画『BALLAD 名もなき恋のうた』にもエキストラで出て。朝6時に房総半島の先っちょのロケ地まで、会社を休んでいったのかな。

CGW:学生時代にスーツアクターをやられていた経験がここで生きるわけですね。

帆足:その頃にはけっこう仲良くなっていたので、ちょんまげ姿のまま別室に連れていかれて、今度これをやるんだけどって、ラクガキ帳みたいなのを見せられたのが『ヤマト』だったんです。

CGW:そんな経緯があったんですね。

帆足:ただ、もちろんエキストラだけではダメで、そこで3DCGもやってることをアピールしつつ。たぶん本気でためされたのは『K-20 怪人二十面相・伝』(2008)(※7)の最後に出てくるでかいメカを、デザインこみでつくった時ですね。最初はモデリングだけお願いされたんですよ。あれはきっとテストだと思うんですが。それで結構いい結果が出せて。それで『ヤマト』につながって。そのあたりから、なんとなくstudio picapixelsが始まりました。

※7:本作には山崎氏も「脚本協力・VFX協力」として参加していた。

偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?

『BALLAD 名もなき恋のうた』(2009)撮影現場にて。このときに映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010)のスケッチを特別に見せてもらったのだとか

CGW:『BALLAD 名もなき恋のうた』って2009年ですよね。他に映像系の仕事はされていたんですか?

帆足:最初にやったのは映画『妖怪大戦争』のお手伝いで、まだEAジャパンスタジオにいたころです。林さんの紹介でワンダリウムの河田成人さんにお会いして、モデラーが足りないっていわれて手伝いました。その後もたまにお手伝いをしていましたね。

CGW:山崎作品以外でエキストラをやられたことはあるんですか?

帆足:樋口真嗣監督とお近づきになりたくて、映画『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(2015)にエキストラとして参加しました。最近ではよくご飯を食べに行く仲です。

CGW:まさにセルフプロデュースですね。

帆足:やりたいことに頭を突っ込んでいっただけですよ。目立ちたいからじゃなくて、純粋にやりたかったから。結果的に先方の印象が良くて、次に繋がったのではないかと。

CGW:実力があっても相性が合わないと続きませんし、そこは人徳ですね。

帆足:どうでしょうか(笑)。

偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?

『海賊とよばれた男』(2016)では、大日本帝国空軍の戦闘機パイロットのエキストラとして参加

<7>人生で一回くらい社長をやってもいい

CGW:studio picapixelsとしての原点が『ヤマト』だったとして、法人化のきっかけは?

帆足:ずばり、税金対策ですね。消費税って個人だと2年間は支払いが猶予されるじゃないですか。うっかり2年経ってしまったんですよ。その時に法人にすればあと2年払わなくても良いと言われて。それにNHKさんみたいに法人にしないと仕事ができないクライアントが出てきて。一生に一度くらい会社を経営してみてもいいかなと。あとは信頼が増えるのもあるし、何かそれまでやったことがなかったことをやってみたかったのもあるし。

CGW:それで法人化して5期目ということですね。フリーの時代と何か違いはありましたか?

帆足:お金の計算とかが大変ですよね。3DCG制作とは頭の使いどころがまったく別ですから。全部自分でやっています。

CGW:今後はどうなんですか? いろんなワークスタイルが許容される時代にもなってきましたが......。

帆足:同じことを長くやり過ぎている感じはしますね。ずっとやっていると、似たような色が出てくるんですよ。だから何かの転換期に来ているんだと思います。でも、それがなにかわからなくて、今はまだ模索中です。今までのように、やりたいことがパキッとあれば、そっちに行くんですが、やりたいことは一通りやっちゃったので。それこそ、だから明日死んでもいいかなみたいな。

CGW:オリジナルをつくるのは?

帆足:それも考えていることのひとつです。今一番やってみたのは小林和史さんのメカトロウィーゴみたいなことですね。

CGW:確かに、メカモデリングとフィギュア造形は相性が良いように感じます。

帆足:小林さんが本当に好きで、淡々とやっていたものが、小林さんの人柄と、人脈で広がったわけで。小林さんも元々3DCGとプラモの人だから、僕と近いんですよ。

CGW:3Dプリンティングについてはどうですか?

帆足:そっちも興味がありますね。まだ触ったこともないですが。この前オートデスクのイベントで自分のデータを出力してもらったのが初めてです。でも、まだ出力したものを見たことがなくて。

CGW:忙しかったからですか?

帆足:それもありますし、自分の周りにそういったことをしている人が少ないというのもありますね。それもあって、先日プロモデラーの飲み会に参加してみたんですよ。皆さん、けっこう3Dプリンタに目が向いていて、驚きました。自分でモデリングして、ガンダムをそのまま出力したりして。市販品くらいのクオリティは出ていましたね。ただ、材料費が40万円くらいかかったとか言ってました。これは......買った方が安いなと。

CGW:帆足さんだと、原型師的な立ち位置になるんでしょうか?

帆足:そのあたりはまだ漠然としているんですが、要するに何かキーになる人に出会えてないんですよね。映像では山崎さんとか。3Dプリンタをやっている知り合いもいますけど、キーになる人がまだいないんです。

CGW:コンセプトデザイン的な仕事も増えていますよね。

帆足:最近は多いですね。ありがたいことに、CMを中心にデザインワークから担当させてもらえる仕事が増えてきています。

CGW:それは意識してそう動かれているんですか?

帆足:人づてで、あの人が良いんじゃないってことになるんじゃないですか。この前やった仕事も交流のあるデジタルアーティストの方が広告代理店の人に「この人ならいい」って推薦してくれたみたいで。デザインからやらせてもらいました。そうやって実績をかさねてきたことで「帆足ならデザインこみでやれる」という話が回っているみたいです。映像作品は敷居が高くて、ホントのデザイナーじゃないと入れてもらえないですが。

CGW:職種が確立されていますからね。デザインは独学ですか?

帆足:それをいうなら、3DCGも独学ですけどね。

偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?

『寄生獣 完結編』(2015)では、警視庁SAT(特殊急襲部隊)役として参加

<8>人との出会いが自分をここまで連れてきてくれた

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『寄生獣 完結編』(2015)撮影現場にて、山崎監督とのツーショット

CGW:デザイン系の方に広げていきたいとう思いはありますか?

帆足:広げていきたいですね。受注仕事だけだとどん詰まりになっていくので、権利モノがあれば良いですね。

CGW:デザインこみの仕事だと、CMからですか?

帆足:『ヤマト』もデザイン込みといえば、そうでしたね。ラフのイメージ画を提供していただき、そこから自分で考えて3DCGに起こしていくというスタイルは、『ヤマト』から始まっています。自分の知るかぎりでは当時、そういうことをするCG屋さんって、ほとんどいなかったんですよ。三面図がないとダメとかね。

CGW:少し前から講演とかセミナーにも登壇されていますよね。後身の教育みたいなことを考えられたりしますか?

帆足:次を担う人は若い人たちなので、なにかしら交流は持っておいた方が良いと思いますね。

CGW:飲みの誘いでも仕事の誘いでも断りませんか?

帆足:自分にとって大切な人が危篤とかじゃないかぎりは行くと思います(笑)。人との出会いが僕をここまで導いてくれたので、それはやめちゃいけないですね。

CGW:体力が続かないな、年を取ったな、と感じられることはありますか?

帆足:たまにありますね。具合が悪くなったりとかはないですが、手が震えているときがありますよ。

CGW:スーツアクターみたいな仕事をまたやってみたいという思いはありますか?

帆足:あるにはありますよ。スクウェアに入ってからもキャプチャアクターは何回かやっています。ただ、もう現役ではないですし、体が動かないですよ(笑)。

CGW:逆に一緒にやってみたいクリエイターさんとかいますか?

帆足:異業種の方とはもっといろいろとコラボレーションしていきたいですね。もっとアート寄りの人とか。

CGW:海外の仕事はされませんか?

帆足:海外の映画制作に外部から参加するのは、なかなか難しいんですよ。機密保持が厳しくて、フリーにいきなり出せないんですね。やるなら向こうに行かないとダメで。やりたいのはやりたいですけどね。

CGW:英語を意識して忘れないようにするとか?

帆足:それはしてませんが、いざ喋るとなったら、ある程度はできますね。もっとも、メチャメチャな文法ですけど。台湾に行くと、向こうの人の英語のレベルが僕とちょうどいいんですよ。なぜか互いに通じるという。

CGW:今年から台湾でも活動されていく予定だと聞きました。

帆足;そうなんです。AURASという、今年1月20日に設立したばかりの台湾は台北市に拠点をかまえる3DCGスタジオの外部取締役になりました。アート全般を見る立ち位置になると思います。すでに日本の大手ゲーム会社から外注の仕事が決まっています。モデリングとテクスチャの受注からはじめて、ゆくゆくは全部受けができて、将来的にはオリジナルがつくれる会社にしていくつもりです。

CGW:studio picapixelsで社員を雇うといったことはありますか?

帆足:僕は現場が好きなんで、なかなか。バジェットの大きい仕事が来るようになれば考えますが、そういう時ってたいてい、みんながやりたくない仕事がだーっと、来るんです。決して映画の主役になるプロップの仕事は来ないんですよ。そういうのがあれば、やりがいもあるんですけどね。

CGW:最後に〆のメッセージではありませんが、この記事を読んでくれた方にひと言お願いします。

帆足:好きなものを好きなままでいることを諦めないでほしいですね。ホントにやりたいんだったら、そっちの世界に少しずつでも飛び込んでいった方が良いと思います。最初はひとりでも、だんだん仲間が増えたり、仲間と知り合ったり、いろいろあると思うんで。若いうちから、あまり将来のことは考えない方が良いんじゃないでしょうか。

CGW:たしかに、東芝のような日本を代表する大企業が経営危機に直面するなんて、誰も思ってなかったですしね。でも、それは帆足さんだからできるんだよって言われるかもしれませんが。

帆足:実際、よく言われます。でも、そう言われてしまうと......そもそもクリエイターって何だって話になってしまいますからね(笑)。

偶然・偶然・また偶然――様々な人との出会いに導かれてきた、帆足タケヒコ(studio picapixels)のクリエイター人生とは?

帆足氏の作業スペース、自宅の一角に設けられている。2012年2月に法人化しているが、今のところは個人として活動しており、案件に応じて外部パーティーの協力を得ている