<3>PIXOMONDOで海外の現実を知る
CGW:OXYBOTさんには何年いらっしゃいましたか?
米岡:2年くらいですね。『TO』をやって、『ヤマト』をやって......。
CGW:英語をちゃんと勉強しようと思ってから、PIXOMONDOで仕事を得て、ベルリンに行くまで2年くらいだったんですか?
米岡:そうですね。受験勉強で英語の読み書きはある程度できましたが、話すのが絶望的に駄目でした。まったくちがう脳を使う感じでした。
CGW:具体的に影響を受けた人はいましたか?
米岡:鍋 潤太郎さんの書籍「ハリウッドVFX業界就職の手引き」を読んで、その内容をトレースしました。SIGGRAPHに行って、Job Fairでデモリールを見せて......というながれです。当時、海外に行っていたCGアーティストはみな鍋潤チルドレンでしたよ。海外で働くといっても、漠然としすぎていて、それしか道がなかったですから。
CGW:海外で働きたいと思う人は多いですし、英語を勉強したいと思う人も多いと思いますが、2年くらいで実現してしまう人は少ないと思います。
米岡:ふり返ると、短期決戦でやった方かなと思います。ただ、今はものすごく敷居が下がっています。日本である程度の実績があって、英語で面接の受け答えがそこそこできて、タイミングさえあえば、サクサクと行ける時代になっていますね。自分の頃がギリギリ大変だったんですよ。
CGW:そうだったんですね。
米岡:PIXOMONDOにねらいをつけたのも、当時3ds Maxを使っていた唯一のスタジオだったからです。笹原組がアニマになって、会社として3ds Maxを使い始めたながれを受けて、自分もLightWaveから3ds Maxに乗り換えました。ただ、当時のハリウッドはMayaが主流で、自分も「今からMayaを覚えるのは無理だな」という思いがあったんです。それにPIXOMONDOはミリタリー系が強かったんですね。そこで爆発などのエフェクトをデモリールに多めに入れました。オムニバス・ジャパンのときと同じで、採用する側の立場を念頭に置いた結果です。まあ、他の会社はほとんど可能性がなかったですからね。
CGW:PIXOMONDOは世界中にスタジオがいくつかあったと思いますが、最初からベルリンで働くことが決まっていたのですか?
米岡:そうですね。それにベルリンに精鋭が集まっていたんですよ。面接してくれた上司がスーパーバイザーで、技術統括担当でした。すごい人の下でいきなり仕事ができて、他のメンバーも全世界で活躍している一流ばかりでした。そういうところに、わけのわからない日本人がまぎれてきたので、最初は先方も戸惑いがありましたね。英語もあまり上手くなかったので、すごく緊張していました。仲良くなる以上に、何とか結果を出さないといけないというプレッシャーがすごかったです。海外で人を採るには、ビザの問題をはじめとして、いろんな人が動いていますからね。お金も相当かかりますから。
CGW:そうでしょうね。
米岡:PIXOMONDOはエフェクトツールのthinkingParticlesを使った破壊エフェクトで急成長した会社でした。残念ながら自分はthinkingParticlesの経験はあまりありませんでしたが、FumeFXを使った爆発、煙などの流体エフェクト全般の制作ノウハウがありました。そのうち先方のスタッフから作り方について聞かれるようになり、逆にthinkingParticlesの使い方も教えてもらえるようになりました。技術を出せば出すほど得をするという話にもつながるんですが、自分としては先方に認められる必要があったため、隠している場合ではありませんでした。それらを通して信頼関係も高まっていき、だいぶ楽になりました。
PIXOMONDO在籍時
CGW:その頃、ご結婚はされていましたか?
米岡:まだ結婚はしていませんでした。自分が先行して乗り込んでいって、その後で結婚して、ベルリンに呼び寄せたかたちです。
CGW:プライベートが充実すると、仕事にも良い影響が出ますよね。逆にプライベートが駄目だと仕事も駄目になります。
米岡:そうなんですよ。特に冬のベルリンの閉塞感はすごかったですね。ヨーロッパの冬は曇りが続くので、実際に鬱病になりやすいですし。特に男性はその傾向が強く、ちゃんとビタミンBを摂りなさいと言われました。
CGW:自分も東京に来て驚きました。冬は快晴続きじゃないですか。こんなの冬じゃないって。
米岡:幸い妻は留学経験があったので、海外生活に対するストレスがありませんでした。ベルリンは東京並みに広い街なので、住んでいて飽きませんでしたね。パリやロンドンにも近く、週末に小旅行するのも簡単でした。そんな風に職場でのプレッシャーとは戦いつつも、充実した毎日でした。
CGW:ハリウッドの大作映画の制作にも、かかわられましたよね。
米岡:『ゲーム・オブ・スローンズ 第二章:王国の激突』(2012)の仕事が転機でした。PIXOMONDOは一時期、資金繰りが悪化して、フリーランスに対して支払いが滞りがちでした。自分は社員だったので影響はありませんでしたが、実力がある人ほど会社から抜けていきました。そこで、だんだん自分が下からくり上がっていったんです。そんな中、あるヒーローショットを誰がやるかといったときに、上司のスーパーバイザーから「この破壊エフェクト、できる?」と声がかかりました。
Kei Yoneoka FXTDReel 2014 v0002 from Kei Yoneoka on Vimeo.
CGW:チャンス到来。
米岡:そのときは「できるよ」と、さも簡単そうに答えましたが、実はあまり経験がなかったんです(笑)。それでも後から猛勉強して乗りきりました。そんな風に結果を出して、クライアントにも納得してもらったことで、リードっぽい仕事をこなすようになりました。難しいショットが自分のところに率先してくるようになりましたね。『スター・トレック イントゥ・ダークネス』(2013)で、派手な破壊のシーンを担当したりしました。
CGW:海外で働くといっても、様々なレベルがありますよね。リードアーティストは1つの壁だと思いますが、実際に手がけられたのは素晴らしいですね。
米岡:そこは本当に大きかったですね。リードとしての業務もさることながら、スーパーバイザーの仕事運びを間近で見られたのも、大変勉強になりました。そのひとつに、1つのショットを漫然とつくらずに、きちんと構成要素を分解して、分業制で行なっていたことがあります。自分も帰国後、この手法をさっそく採り入れました。例えば『シン・ゴジラ』で超高層ビルが破壊されるショットでも、プライマリのシミュレーションは自分、窓ガラスが飛び散るのはAさん、カーテンが揺れるのはBさんといった具合に、タスクを分解して分担していったんです。これによって、1つのショットを複数人で担当するのが非常に楽になりました。
CGW:なるほど。
米岡:それまで日本では1ショットを1人が担当するのが一般的でした。皆が各自のやり方でやるので引き継ぎが非常に難しかったんです。しかし、PIXOMONDOでは分業することを前提にルール決めが行われていて、そこからタスクが分解されていくため、引き継ぎも簡単なんですね。その後、PIXOMONDOを離れて、カナダのScanlineVFXに移ったときも、同じ手法が採られていました。そのときに、これは海外ならではの、人がくるくる入れ替わることを前提としたワークフローなんだと理解できました。これを日本にもち帰ってぶつけてみたのが、『シン・ゴジラ』です。仮に昔と同じやり方でやっていたら、スケジュールが押しても誰もヘルプに入れなくて、クオリティがぐっと下がったと思います。
ScanlineVFX在籍時
CGW:裏を返せばそれだけ効率化・分業化を進めないと、とてもじゃないけどこなせない物量になっていたんでしょうね。そこが米岡さんが昔、感じられた日本とハリウッドのVFXの差になっていたんでしょうし。
米岡:そうですね。もっといえば、予算が全然ちがいます。日本では予算が少ないので、分業自体がなかなか成り立ちません。そのため手が空いていたらモデルも、エフェクトも、コンポジットもやってくれ、というスタイルが、場合によっては一般的ではないでしょうか。そうなると1人の負担が増えて、疲弊してしまって、クオリティが上がらないという悪循環にハマっていきます。