業界屈指のエフェクトアーティストとして知られ、11月30日(金)にはCGWORLD +ONE Knowledgeにて昨年開催された大人気講座「StealthWorks 破壊FX講座」の再開催を予定しているステルスワークス代表・米岡 馨氏。3時間超にわたったインタビューの後編は、笹原組入社からフリーランスとして様々なプロダクションを渡り歩き、海外での勤務経験を経て帰国後ステルスワークスを起業、現在にいたるまでの道程を語ってもらった。

INTERVIEW_小野憲史 / Kenji Ono
EDIT_小村仁美 / Hitomi Komura(CGWORLD)
PHOTO_弘田 充 / Mitsuru Hirota

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StealthWorks FX Reel 2018 from StealthWorks LLC on Vimeo.

11月30日(金)19時~
「StealthWorks 破壊FX講座」
(CGWORLD +ONE Knowledge)
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<1>ゲームのムービー制作を通してキャリアを積む

CGW:笹原組ではゲームの仕事を良く受注されていましたよね。

米岡:自分も『ドラッグオンドラグーン』(2003)、『ワイルドアームズ アルターコード:F』(2003)、『どろろ』(2004)、『ドラッグオンドラグーン2 封印の紅、背徳の黒』(2005)などのイベントムービーを制作しました。いずれもPS2のゲームで、当時ならではの映像表現でした。

CGW:まさに端境期でしたね。これがPS3になると、インゲームのカットシーンが中心になっていきます。

米岡:ただ、笹原組にいた頃は、自分自身でなかなか納得がいくクオリティが出せなかったんです。当時はスクウェア・エニックス ヴィジュアルワークスが業界でも断トツで高いクオリティを出していて、どう頑張ってもそこに到達しなかったんですよ。

CGW:実際、ヴィジュアルワークスは今でも国内最高峰ですし、当時はもっと差がありましたよね。

米岡:そんなとき、LiNDAの林田宏之さん(故人)と仕事をする機会がありました。林田さんの審美眼はすごくて、どうやったらこんなに高いクオリティが出せるんだろうと、いつも驚かされました。その後、笹原組を離れてフリーランスになって、いろんな会社でお世話になりました。そんな中、『ロストオデッセイ』(2007)のCG制作でお呼びがかかったんです。林田さんが主導でシネマティクスを制作されていて、そこにモデラーとして招集されました。

CGW:『FF』シリーズの坂口博信さんがプロデューサーを務め、『バガボンド』の井上雄彦さんがキャラクターデザインをされたRPGですよね。

米岡:自分にとっては、林田さんと初めて直で仕事をしたことで、思い出深いタイトルになりました。とにかく、緊張感がすごかったんですよ。そこで当時から戦闘機や戦車を作っていたこともあり、4つ足で剣がついている戦車みたいなキャラクターを、モデリングからテクスチャ、質感までまるっと任されました。ちょうど自分なりに制作スタイルが固まりつつあった頃で、外装の汚れについても手で適当に描かずに、実際の写真をリファレンスにして、丁寧に汚しを入れていきました。そうしたら、林田さんに結構気に入ってもらえたようで、クオリティが不足しているモデルがあると、自分にフォローの依頼が来るようになりました。

CGW:ああ、そうだったんですね。それは印象に残りますね。

米岡:そんな風に『ロストオデッセイ』は自分にとって、節目のタイトルになりました。そこからまたしばらくして、『ファイナルファンタジーXIII』(2009)の話がLiNDAとアニマロイドに来ました。そのときはとにかくリアリティを突き詰める、といったテーマだったそうです。そこでも林田さんから「米岡君にやってほしい」と指名が来まして。これはやるしかないなと。そこでもまた自信をもらえました。

CGW:まとめると『ロストオデッセイ』が31歳のとき、『ファイナルファンタジーXIII』が33歳のときですね。20代の悶々とした時期を抜けて、30代でひと皮むけたと言うことですね。

米岡:そうですね。当時はこのままやっててもいいのかなと、すごく悶々としていました。

CGW:笹原組を辞めて転職せずにフリーランスになったのには、何か理由がありましたか?

米岡安定よりも自由にやりたかったんですね。フリーランスには、会社からすれば手が足りないときに来てもらう、どこかお客さんみたいなところがあります。そのため、結果さえ出せば自由にやらせてもらえる良さがあるんですね。これが会社員になると、安定性と引き換えに、会社の社風に縛られます。実際オムニバス・ジャパンで1年間契約社員をやったんですが、会社員に向いていないことが改めてわかりました。

CGW:よくわかります。いろんな会社に常駐することで、それぞれのノウハウもわかるでしょうし。

米岡:そうですね。良くも悪くもいろんな会社のやり方がわかりましたし、ある会社の良いところを別の会社でも採り入れて、フローの改善を行なったこともありました。行く先々で結果を出しつつ、地盤を固めていったんです。それが先々、海外に出るときに役に立ちました。

CGW:どういうことですか?

米岡:自分で言うのもなんですが、どの会社でも貢献度が高かったと思うんです。無茶ぶりにも応えましたし、結果を出すまでちゃんと付き合いました。もちろん、クオリティも出しました。一介のアーティストだけではなく、フリーランスなのに背景ディレクションをやったりなど、少し上のポジションを任されていました。それが功を奏したのか、海外に行くときにスタジオに提出する推薦文の作成を、お世話になったプロデューサーにお願いできたんです。そもそも皆さん忙しいですし、お願いするのも恐れ多いじゃないですか。それに推薦文って英語で書く必要がありますし。

CGW:確かに。

米岡:そんなときでも「あのときお世話になったから」と、皆さん気軽に対応して頂けました。自分も英語でひな形を作っておいて、そこにサインをすれば良いだけにしておくなど、結構図々しいことをやったりしましたね。「エフェクトディレクターとして結果を出しただけでなく、若手の育成にも貢献しました」とか、自画自賛する内容を書いて、「この内容で良ければサインをお願いします」とか(笑)。

CGW:会社にとってみても、フリーランスで中間管理職的な仕事をしてくれて、プロジェクトが終わったらサクッと辞めてくれるみたいな人は重宝しますよね。実際、一度正社員雇用すると、日本では解雇が大変難しいですから、余計に印象が強かったかもしれませんね。

米岡:そうかもしれないですね。

CGW:しかも、どこの会社に行っても、すぐに社内にすっと馴染まれたわけですよね。会社にはそれぞれ、明文化されていないしきたりみたいなものがあります。それを踏まえた上でディレクションをしてくれたら、自然に好感度が高まります。

米岡:今から思うと、笹原組にいたときは内心「自分より上手い人がいるなんて、腹が立つ」とギラギラしていたように思います。そこからフリーランスになって、いろんな組織に溶け込んでいかざるを得なくなったとき、考え方が変わりました。いつまでもバチバチでやっていたら、周囲に馴染めないですし。そのために変なライバル意識を捨てて、上手い人は素直に上手いと認めることにしました。これは会社を経営する上でも重要で、スタッフの成果物をフェアに評価するように心がけています。厳しいだけだとモチベーション保てないですからね。

CGW:昭和的ですね。

米岡:自分も駄目なものは駄目とハッキリ言いますが、良いものは褒めるようにしています。「これ、良いね」「これ、もう答えが出たんじゃないの」「これ、模範解答が出たね」みたいな感じで、多少大げさに褒めるんですよ。実際、そんな風に言われたら悪い気はしないですしね。自分がいた会社には、そうした雰囲気がありましたし、自分もフリーランスで入るときは、そうした雰囲気づくりをするように心がけていました。それが今の組織づくりの根幹になっていますね。

CGW:フリーランス時代に人間力が磨かれたんですね。

米岡:実際、周りと仲良くしなければ、やっていけないですからね。

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<2>実写VFXの世界に飛び込み、そこから海外へ

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<2>実写VFXの世界に飛び込み、そこから海外へ

CGW:フリーランス時代は、ゲームシネマティクスの仕事が中心でしたか?

米岡:最初はそうでしたが、だんだん海外に対する憧れが湧いてきました。当時はハリウッド作品と邦画のVFXの差が大きくて、一生追いつけないんじゃないかという感じだったんです。そこで、これはもう、1回行ってみるしかないぞと。そのためにはゲームシネマティクスから離れて実写案件をやらないと厳しいなと思いました。PIXARやドリームワークスであれば、まだゲームシネマティクスと親和性があったと思いますが、実写にCGを馴染ませてナンボという世界では、そういった経験をデモリールに入れなければ、厳しそうでしたからね。

CGW:なるほど。

米岡:そこで映画『海猿』などで実績のあるオムニバス・ジャパンで修行することにしました。実際、『海猿』の実写VFXは国内でも最高峰で、ハリウッドに迫っていましたからね。最初の1年はフリーランス、次の1年は契約社員となりました。ただ、そこでさっき言ったように、契約社員には向いていないことがわかったんですが。

CGW:移籍は上手くいきましたか?

米岡:それまで実写VFXの経験がありませんでしたから、アプローチを工夫しました。いきなり「実写VFXの経験がゼロなので勉強させてください」では難しいと思ったので、自分で90式戦車をモデリングして、簡単に実写の風景と合成してみて、「ここまではできるんですが、これ以上はまだ勉強不足なんです」というスタンスで臨みました。そうすると「こいつ、見込みがあるんじゃない?」という感じで、採用してもらえました。


オムニバス・ジャパンへの就職にあたって制作した90式戦車と実写風景の合成

CGW:戦略的ですね。

米岡:すでにディレクションもしていたので、採用されやすいアーティスト像が見えていたんですね。何もできない人より、ある程度準備ができている方を選ぶだろうと思ったんです。そこで、まずは最低限のレベルまで独学で学んで、そこからスタートという風にしました。

CGW:オムニバス・ジャパンでの仕事はどうでしたか?

米岡:CMに映画にと、実写VFXの仕事が大量にできるようになったのは良いんですが、とにかく大変でした。特に当時のCM業界は、何かにつけてクライアントが外注にパターン出しを要求していました。アイデアを大量に出させて、そこから1個だけ選ぶみたいなことが普通に行われていて、非常にしんどい時期でしたね。

CGW:ああ、わかります。CM業界はそうした業界文化がありますね。

米岡このままではモチベーションが尽きると思ったのが、続かなかった原因でした。ただ、今になって思うと、そこで学んだことはすごく大きかったですね。同社に来るCM案件は、日本でもトップクラスでした。言い訳ができない、甘えが効かない環境で仕事ができたのは、後になって役立ちました。技術的な部分や人脈も含め、このときの経験がなければ今の自分はないと言っても過言ではありません。

CGW:ちょうど米岡さんがフリーランスで活躍された2000年代半ばは、CG制作の大規模化や分業化が進んでいった時期と重なります。米岡さんも次第にキャリアを積まれる中で、徐々にゼネラリストからエフェクトのスペシャリストに移行されたんでしょうか?

米岡:そうですね。それが自分の中で海外を目指すようになった時期とオーバーラップしていきました。海外スタジオは基本的にスペシャリストの集団です。オムニバス・ジャパン時代にSIGGRAPHに行き、海外で働くための情報収集を行いました。そこで当時、CafeFXでゼネラリストだった佐々木 稔さんにお会いする機会があり、アドバイスをいただきました。そのときは自分もゼネラリストだったので、ゼネラリスト向けとエフェクト向けの両方のリールをもっていったんです。そうしたら、「エフェクトで行くのが良いんじゃない」というアドバイスをくれたんですね。そこから自分は、モデリングなどのレッドオーシャン的な分野は避けて、エフェクトに絞るようにしました。


CGW:そうだったんですね。

米岡:後になって佐々木さんに理由を聞いたら、「エフェクトはすごく楽しんで作っている印象を受けた」といわれました。そこで初めて気がつきましたね。実際、どのセクションも試行錯誤がありますが、エフェクトはアーティストの思い入れが如実に出るんです。適当にアセットを置いただけのエフェクトと、リファレンスを徹底的に研究して、ケレン味を出しまくって作ったエフェクトは、パッと見ただけでちがいますし。そういった部分を佐々木さんが見抜かれたのかなと。

CGW:あわよくば仕事もゲットできればという思いがありましたか?

米岡:そうですね。ただ、最初はなかなか上手く行きませんでした。そこで2年目にエフェクトに絞ったリールをもっていって、SIGGRAPHのJobFairを巡ったところ、PIXOMONDOから声がけをいただいたんです。「最初の1~2分でいいから見てほしい」と担当者に見せたところ、結構良い評価をいただいたようで、エントリーシートに「Great Reel」とメモを書いてくれたのを覚えています。

CGW:それはモチベーションが上がりますね。

米岡:実際、帰国後にメールが来て、Skypeで面接をすることになりました。ただ、急な話だったので、準備があまりできませんでした。出たとこ勝負で何とかなると臨んだら、後の上司になるイラン人スーパーバイザーの英語が、少しも聞き取れなかったんです。とにかく早口で、何を言っているかわからない。「このエフェクトのワークフローとパイプラインを教えてくれ」と言われても「特にありません」「気合いです」なんて答えてしまって。全然話が噛み合わなかったという。

CGW:それは厳しいですね。

米岡:後ほど先方から「デモリールは良いけれど、国際的なワーフクローで仕事をする上では難がある」と、お断りのメールが来ました。そこでようやく自分の足りないところに気がつきました。それと前後して、CMのような短いスパンの仕事をやっていては、とてもじゃないけど英語の勉強をする時間が取れないと思ったんです。そこでオムニバス・ジャパンを離れて、OXYBOTに移りました。CGディレクターの宮崎(浩和)さんという方から誘われて、OVA『TO』(2009)の制作に携わるようになったんです。フルCG案件で、半年くらい制作期間があったので、英語をコンスタントに勉強できました。

CGW:どんな勉強をされましたか?

米岡: 週末に英会話喫茶に行ったり昼食時に外国人とマンツーマンで英語のレッスンをしたりしましたね。そんな風に英語を週3回くらい、しっかり勉強する機会が取れましたし、手がけていた案件もハイエンドなものが中心だったので、デモリール映えする作品もできました。『TO』で作った特殊なエネルギー爆発を見た白組の山崎 貴監督がぜひ使いたいと言ってくれて、その縁で『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010)にも参加できました。それと前後してPIXOMONDOから「最近どうですか? 英語を勉強していますか?」というメールが来たんです。そんな風に、OXYBOTに行ってから状況がずいぶん好転しました。

Kei Yoneoka "SPACE BATTLESHIP YAMATO" effect reel from Kei Yoneoka on Vimeo.

CGW:1回断られた相手から、また連絡が来るって、なかなかないですよね。

米岡:まあ、先方もいよいよ人手不足で、ダメ元で声をかけたのかもしれませんね。一方こちらとしても、今回はデモリールの内容やメイキングなどを英語でしっかり説明できるように準備しました。ちょうどその頃、現・モデリングブロス代表で当時はZOIC Studiosに所属していた今泉隼介さんが日本に一時帰国されたことがありました。日本で仕事をしてみたいというので、デジタル・メディア・ラボを紹介して『戦国BASARA3』(2011)の仕事をご一緒させていただいたんです。そのときに今泉さんにCGの専門用語を英語で教えてもらったりしました。そんな風に、前回の敗因を完全につぶして面接に臨むことができました。

CGW:そういう経緯があったんですね。

米岡:ちなみに面接に受かってベルリンに行く前に、OXYBOTで妻と出会いました。OXYBOTにはいろんな外注さんがいて、その中の1人が妻だったんですね。彼女も早稲田出身で、在学中に米アイオワ州に留学経験がありました。英語の質問という名目で声をかけて、次第に仲良くなりました。もっとも、彼女には社内恋愛で波風を立てたくないという思いがあったようで、しばらく人生のステルスミッションをしていましたね。

CGW:一石三鳥くらいになりましたね。英語の勉強もできて、人生のパートナーとも出会えて、海外の職も得られて。

米岡:本当にそうですね。OXYBOTにはフリーランスで入りましたが、おかげさまで人生の転機になりました。高難易度の案件が多い職場でしたが、一定以上の力量があれば、広く裁量をもたせてくれる社風がありました。曽利監督も一定以上のクオリティを出していれば好きにやらせてもらえましたね。実際、出社のタイミングや、途中で抜けるタイミングなどは自由でした。自分にすごく合っているなと思ったので、そこから今でもご縁が続いています。

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<3>PIXOMONDOで海外の現実を知る

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<3>PIXOMONDOで海外の現実を知る

CGW:OXYBOTさんには何年いらっしゃいましたか?

米岡:2年くらいですね。『TO』をやって、『ヤマト』をやって......。

CGW:英語をちゃんと勉強しようと思ってから、PIXOMONDOで仕事を得て、ベルリンに行くまで2年くらいだったんですか?

米岡:そうですね。受験勉強で英語の読み書きはある程度できましたが、話すのが絶望的に駄目でした。まったくちがう脳を使う感じでした。

CGW:具体的に影響を受けた人はいましたか?

米岡鍋 潤太郎さんの書籍「ハリウッドVFX業界就職の手引き」を読んで、その内容をトレースしました。SIGGRAPHに行って、Job Fairでデモリールを見せて......というながれです。当時、海外に行っていたCGアーティストはみな鍋潤チルドレンでしたよ。海外で働くといっても、漠然としすぎていて、それしか道がなかったですから。

CGW:海外で働きたいと思う人は多いですし、英語を勉強したいと思う人も多いと思いますが、2年くらいで実現してしまう人は少ないと思います。

米岡:ふり返ると、短期決戦でやった方かなと思います。ただ、今はものすごく敷居が下がっています。日本である程度の実績があって、英語で面接の受け答えがそこそこできて、タイミングさえあえば、サクサクと行ける時代になっていますね。自分の頃がギリギリ大変だったんですよ。

CGW:そうだったんですね。

米岡:PIXOMONDOにねらいをつけたのも、当時3ds Maxを使っていた唯一のスタジオだったからです。笹原組がアニマになって、会社として3ds Maxを使い始めたながれを受けて、自分もLightWaveから3ds Maxに乗り換えました。ただ、当時のハリウッドはMayaが主流で、自分も「今からMayaを覚えるのは無理だな」という思いがあったんです。それにPIXOMONDOはミリタリー系が強かったんですね。そこで爆発などのエフェクトをデモリールに多めに入れました。オムニバス・ジャパンのときと同じで、採用する側の立場を念頭に置いた結果です。まあ、他の会社はほとんど可能性がなかったですからね。

CGW:PIXOMONDOは世界中にスタジオがいくつかあったと思いますが、最初からベルリンで働くことが決まっていたのですか?

米岡:そうですね。それにベルリンに精鋭が集まっていたんですよ。面接してくれた上司がスーパーバイザーで、技術統括担当でした。すごい人の下でいきなり仕事ができて、他のメンバーも全世界で活躍している一流ばかりでした。そういうところに、わけのわからない日本人がまぎれてきたので、最初は先方も戸惑いがありましたね。英語もあまり上手くなかったので、すごく緊張していました。仲良くなる以上に、何とか結果を出さないといけないというプレッシャーがすごかったです。海外で人を採るには、ビザの問題をはじめとして、いろんな人が動いていますからね。お金も相当かかりますから。

CGW:そうでしょうね。

米岡:PIXOMONDOはエフェクトツールのthinkingParticlesを使った破壊エフェクトで急成長した会社でした。残念ながら自分はthinkingParticlesの経験はあまりありませんでしたが、FumeFXを使った爆発、煙などの流体エフェクト全般の制作ノウハウがありました。そのうち先方のスタッフから作り方について聞かれるようになり、逆にthinkingParticlesの使い方も教えてもらえるようになりました。技術を出せば出すほど得をするという話にもつながるんですが、自分としては先方に認められる必要があったため、隠している場合ではありませんでした。それらを通して信頼関係も高まっていき、だいぶ楽になりました。


PIXOMONDO在籍時

CGW:その頃、ご結婚はされていましたか?

米岡:まだ結婚はしていませんでした。自分が先行して乗り込んでいって、その後で結婚して、ベルリンに呼び寄せたかたちです。

CGW:プライベートが充実すると、仕事にも良い影響が出ますよね。逆にプライベートが駄目だと仕事も駄目になります。

米岡:そうなんですよ。特に冬のベルリンの閉塞感はすごかったですね。ヨーロッパの冬は曇りが続くので、実際に鬱病になりやすいですし。特に男性はその傾向が強く、ちゃんとビタミンBを摂りなさいと言われました。

CGW:自分も東京に来て驚きました。冬は快晴続きじゃないですか。こんなの冬じゃないって。

米岡:幸い妻は留学経験があったので、海外生活に対するストレスがありませんでした。ベルリンは東京並みに広い街なので、住んでいて飽きませんでしたね。パリやロンドンにも近く、週末に小旅行するのも簡単でした。そんな風に職場でのプレッシャーとは戦いつつも、充実した毎日でした。

CGW:ハリウッドの大作映画の制作にも、かかわられましたよね。

米岡:『ゲーム・オブ・スローンズ 第二章:王国の激突』(2012)の仕事が転機でした。PIXOMONDOは一時期、資金繰りが悪化して、フリーランスに対して支払いが滞りがちでした。自分は社員だったので影響はありませんでしたが、実力がある人ほど会社から抜けていきました。そこで、だんだん自分が下からくり上がっていったんです。そんな中、あるヒーローショットを誰がやるかといったときに、上司のスーパーバイザーから「この破壊エフェクト、できる?」と声がかかりました。

Kei Yoneoka FXTDReel 2014 v0002 from Kei Yoneoka on Vimeo.

CGW:チャンス到来。

米岡:そのときは「できるよ」と、さも簡単そうに答えましたが、実はあまり経験がなかったんです(笑)。それでも後から猛勉強して乗りきりました。そんな風に結果を出して、クライアントにも納得してもらったことで、リードっぽい仕事をこなすようになりました。難しいショットが自分のところに率先してくるようになりましたね。『スター・トレック イントゥ・ダークネス』(2013)で、派手な破壊のシーンを担当したりしました。

CGW:海外で働くといっても、様々なレベルがありますよね。リードアーティストは1つの壁だと思いますが、実際に手がけられたのは素晴らしいですね。

米岡:そこは本当に大きかったですね。リードとしての業務もさることながら、スーパーバイザーの仕事運びを間近で見られたのも、大変勉強になりました。そのひとつに、1つのショットを漫然とつくらずに、きちんと構成要素を分解して、分業制で行なっていたことがあります。自分も帰国後、この手法をさっそく採り入れました。例えば『シン・ゴジラ』で超高層ビルが破壊されるショットでも、プライマリのシミュレーションは自分、窓ガラスが飛び散るのはAさん、カーテンが揺れるのはBさんといった具合に、タスクを分解して分担していったんです。これによって、1つのショットを複数人で担当するのが非常に楽になりました。

CGW:なるほど。

米岡:それまで日本では1ショットを1人が担当するのが一般的でした。皆が各自のやり方でやるので引き継ぎが非常に難しかったんです。しかし、PIXOMONDOでは分業することを前提にルール決めが行われていて、そこからタスクが分解されていくため、引き継ぎも簡単なんですね。その後、PIXOMONDOを離れて、カナダのScanlineVFXに移ったときも、同じ手法が採られていました。そのときに、これは海外ならではの、人がくるくる入れ替わることを前提としたワークフローなんだと理解できました。これを日本にもち帰ってぶつけてみたのが、『シン・ゴジラ』です。仮に昔と同じやり方でやっていたら、スケジュールが押しても誰もヘルプに入れなくて、クオリティがぐっと下がったと思います。


ScanlineVFX在籍時

CGW:裏を返せばそれだけ効率化・分業化を進めないと、とてもじゃないけどこなせない物量になっていたんでしょうね。そこが米岡さんが昔、感じられた日本とハリウッドのVFXの差になっていたんでしょうし。

米岡:そうですね。もっといえば、予算が全然ちがいます。日本では予算が少ないので、分業自体がなかなか成り立ちません。そのため手が空いていたらモデルも、エフェクトも、コンポジットもやってくれ、というスタイルが、場合によっては一般的ではないでしょうか。そうなると1人の負担が増えて、疲弊してしまって、クオリティが上がらないという悪循環にハマっていきます。

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<4>帰国、そしてステルスワークスを旗揚げ

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<4>帰国、そしてステルスワークスを旗揚げ

CGW:ただ、だからこそ1人で全部の工程が体験できる良さもあると思います。バランスが難しいですね。

米岡:そうなんですよね。自分も海外でシステマティックにやっていくことに、だんだん疑問を感じるようになっていきました。あるエフェクトで自分がやったことって、この一部分にすぎない......極論すれば、そうなってしまいますからね。海外での仕事に憧れて、実際に様々な大作に参加したにもかかわらず、モチベーションが下がっていく一方でした。こんな仕事をしたくて海外に来たのかな......そんな感じに襲われていったんです。もともと、しばらくしたら日本に帰ってくる予定でしたし、家庭の事情もありました。


CGW:どれくらいの期間いらっしゃったんですか?

米岡:PIXOMONDOとScanlineVFXで、3年強の間に8~9本くらいの作品にかかわりました。あれだけの超大量の物量を、あんなにバカバカと捌けるんだというのは、実際に体験してみないとわからないですね。もっとも皮肉なことに、そうした分業化が原因でモチベーションが低下し、日本に帰ってきたにもかかわらず、『シン・ゴジラ』『鋼の錬金術師』で、同じやり方をせざるを得ませんでした。そうでなければ、あれだけの物量をこなすことはできなかったからです。『シン・ゴジラ』である程度の手応えを得て、そこで学んだことを『鋼の錬金術師』でぶつけられました。

CGW:エフェクト面での両者のちがいはどうでしたか?

米岡:『シン・ゴジラ』は巨大怪獣が街を壊すため、ある程度勢いで作れました。しかし『鋼の錬金術師』は等身大のバトルが中心で、より繊細なエフェクトを大量に作る必要がありました。そのため、アセットをしっかり作って、誰が抜けても、誰が入っても引き継げるような状況にせざるを得ませんでした。その上で、スタッフが良い仕事をしたら褒めまくる。そんな風にしてモチベーションを保つようにしました。

CGW:なるほど。

米岡:他に大事だなと思ったのは、内部的なクオリティを80~90点で止めることですね。何でもそうですが、80点まではスッと到達しても、そこからだんだんクオリティが上がらなくなっていきます。100点にもっていくには、そこから多大な労力がかかります。そうなると、仮に100点に到達できても、案件が終わったらスタッフが燃え尽きてしまう。それを防ぐために、アセットを流し込むだけで70~80点が取れるくらいに準備しておくんです。そこから、ちょっとがんばれば90点までは行けるようにする。そんな風に血反吐を吐きながら100点を目指してチームが最後に空中分解するよりも、80~90点で止めて、次のチャンスで頑張るという風にしないと、社内で技術の蓄積が進みません。

CGW:なるほど。

米岡:あとは、うちで働いてくれる人に対して、基本給+αで報酬をお支払いできるようにしています。個々人のスキルに対して基本ラインを設けて、仮に週末も働いてもらったり、複数案件をかけもちしてくれたら、そこに+αをお支払いするという感じです。それに加えて週末出社したら代休を取ってもらう。とにかくスタッフをこき使わない。それを意識することで、離職率は非常に低くなっていますね。

CGW:業務委託契約とはいえ、スタッフの皆さんに気を遣われていますね。

米岡:自分がそうですからね。最低限のケアは必要です。それはスタッフに対しても同じようにしないと。

CGW:OXYBOTさんに似ていますね。

米岡:そうですね。スキルが一定以上ある人には自由にやってほしい。スキルがそこまで到達していない人には、逆にプレッシャーになるので、ちゃんと道筋をつけてあげる。そんな風にして成長してもらえればと思います。

CGWModelingCafe福岡の北田栄二さんをはじめ、1度ハリウッドで仕事をされて、海外の良いところを学んだ上で、日本に戻ってきて上手くアレンジして活用するといったスタイルが増えていますね。

米岡:そうですね。海外のやり方をそのまま真似しても上手くいきませんから、場所に合わせたチューニングは必要だと思います。

CGW:ちなみに、ずっとフリーランスで続けられて、あえて法人をつくられた理由はなんでしたか? 再びフリーランスでやる道もあっただろうし、大手に社員で入るという選択肢もあったと思います。

米岡:大手に入る選択肢はありませんでした。大手はワークフローなどが固まっていることが多く、それを変えていくのは非常に大変なんです。それはオムニバス・ジャパン時代に感じたことでした。組織が大きければ大きいほど、何かを変えようとしたら、良くも悪くもスキル以外のことが必要になっていきます。そこが面倒くさかったんですね。それよりも、海外で学んだことをダイレクトにやりたいという思いがありました。

CGW:わかります。

米岡:OXYBOTで『鋼の錬金術師』をやったときにはまだフローが固まっていなかったのでエフェクト周りは裁量をもってやれました(参考記事)。

CGW:逆に法人化された理由としては?

米岡:やっぱり自分の自由にやりたいということですね。『鋼の錬金術師』が終わって、中目黒にオフィスを起ち上げたことで、ようやく法人らしくなりました。ただ、オフィスを起ち上げるだけで1,000万円くらいのお金がかかりました。その結果、多少余裕をもって準備をしていたはずなのに、ちょうど仕事の谷間が重なったことで、売上と経費が釣り合わない時期が生まれたんです。以前は月末締め翌月頭払いでしたがスタッフに対して支払いを翌月末払いにしてもらったり、信用金庫に融資を頼んだこともあります。

ステルスワークス中目黒オフィスの起ち上げ時(左)と現在(右)

CGW:中小企業の経営者をやっていますね。皆さん、資金繰りの夢を見ると言います。

米岡:繁忙期の辛さは自分が頑張ればいいだけですが、お金がないのは、どう頑張っても無理ですからね。あのときのヒリヒリ感は、それまで経験したことがないものでした。ただ、他の経営者の方に聞くと、多かれ少なかれ似たような経験をされていて。

CGW:他社さんもそうだった、なんてことがわかってきて。

米岡:そうですね(笑)。おかげさまで今では資金繰りも安定して、キャッシュフローも健全化できました。

CGW:今後の夢やビジョンはありますか?

米岡:自分は他人には偉そうに常々、3年先、5年先を見据えて行動しろと言っているんですが、今の自分は会社経営と子育てで疲れ果てていて、1年先も見えていないです(笑)。

CGW:30代のフリーランス時代は戦略的に動かれていた気がします。

米岡:海外就職が上手くいかないとき、いろいろ自己分析をしました。いろんな雑誌やビジネス書も読んだりしましたね。そこで得たのは、どの人も「○○歳までに△△△△になる」というゴール思考で仕事をされていたことです。確かに自分も、ぼんやりと「いつか海外に行きたいな」と思っていたときは、何も進んでいませんでした。

CGW:よくわかります。

米岡:そこで「35歳までには海外に行こう」と決めて、だったらSIGGRAPHにはあと何回しか行けない、だったらデモリールの説明ができなければいけない、だったらこれまでには英語の勉強を始めないといけない、だったら長期案件ができる環境に身を置かなければいけない......と逆算できるようになりました。そこからOXYBOTに行き長期案件に携わり、英語の勉強を始め......といった感じです。おかげさまで、35歳より前に海外で仕事ができるようになりました。そのとき、ゴール思考は正しいなと思いましたね。

CGW:そこから帰国されて、法人を起ち上げられて、今はちょっとひと休みですか?

米岡:2014年に帰国して、2015年に法人を起ち上げて、子どもが生まれて......本当にバタバタしていました。実際、起業と子育ての時期はずらすべきでしたね(笑)。


CGW:そこから会社の金融危機を乗り越えて、新しく河野さんもジョインされて、再スタートといった感じなんですね。

米岡:河野自身もスクウェア・エニックスで働いていましたが、、安定したポジションから転身し未完成な会社で組織づくりをすることを選んでくれました。では自分はというと、将来的に海外から仕事が取れるようにしたいですね。ただ、今は目先の仕事をひたすら片付けるフェーズです。今はスタッフも増え仕事を回せるリードも増えた。そうなると受注できる仕事の数も増えるんですが、チェックも大変になります。会社的には長期案件を受注したいので、上手く案件をオーバーラップさせて、仕事が途切れないようにしたいんですが、それはそれで大変で。

CGW:そこは永遠の課題かもしれませんね。

米岡:特にうちに来るような案件はヘビーなものが多いんです。他で捌けないから、駆け込み寺的な感じで来るものが中心になります。もっとも、その分だけ値段の交渉などもしやすくなるので、ラッキーだと思ってはいるんですけどね。『鋼の錬金術師』も質、量共に非常にチャレンジングでしたが、デモリール公開の申請もお願いしやすくなりました。先日公開したところ、大きな反響がありましたし、スタッフもモチベーションが上がったようです。そういったアピールは積極的にやっていきたいですね。

StealthWorks FULLMETAL ALCHEMIST FX Reel from StealthWorks LLC on Vimeo.

CGW:ありがとうございました。今後のご活躍を期待しております。

11月30日(金)19時~
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