笹原組を振り出しに、フリーランスとして業界で活躍。そこからドイツのPIXOMONDO、カナダのScanlineVFXと海外の大手VFXスタジオでハリウッドの大作映画に関わってきた米岡 馨氏。帰国後はステルスワークスを起ち上げ、映画『シン・ゴジラ』(2016)、『鋼の錬金術師』(2017)の制作に参加するなど、業界屈指のエフェクトアーティストとして知られる人物だ。CGWORLD +ONE Knowledgeにて昨年開催された大人気講座「StealthWorks 破壊FX講座」が11月30日(金)に再開催されることを受け、山口県で生まれ育った少年が、上京後CGの道に進み、海外を経て日本に戻り再スタートを切るまでの人生をふり返ってもらった。3時間超にわたる濃密なインタビューを前後編に分けてお届けする。

INTERVIEW_小野憲史 / Kenji Ono
EDIT_小村仁美 / Hitomi Komura(CGWORLD)
PHOTO_弘田 充 / Mitsuru Hirota

StealthWorks FX Reel 2018 from StealthWorks LLC on Vimeo.

11月30日(金)19時~
「StealthWorks 破壊FX講座」
(CGWORLD +ONE Knowledge)
詳細・お申し込みはこちら

<1>山口県で悶々と過ごした少年時代

CGWORLD(以下、CGW):米岡さんはナナロク世代なんですよね?

米岡 馨(以下、米岡):はい、1976年生まれの42歳です。俳優の香取慎吾さん、元サッカー日本代表の中田英寿さんと同じですね。ただ、だんだん自分の年齢にも興味がなくなってきました(笑)。

CGW:ご出身は?

米岡:山口県下関市です。

CGW:自分も山口県で、周南市(旧・徳山市)の出身なんです。下関だと、福岡のTV放送が見られますよね。徳山は地域にもよりますが、自分が住んでいた地域は当時、民放が2局しか入りませんでした。下関市は都会だから、憧れましたね。

米岡:山口県の中では、そうですね。とはいっても、下関にいる人は福岡に対する憧れが強くて。新幹線で30分くらいですし。

CGW:ご実家が下関なんですか?

米岡:そうなんですが、幼少時は父親の仕事の都合で、油谷町(現・長門市)にいました。下関から車で1時間くらいのところです。父親はエビの養殖をやっていて、母親は保険の外交員をしていましたね。両親ともに仕事はアートとは無縁な家庭ですが、母親はアートに対する理解はあったのでよく美術館や劇場に連れて行ってくれました。小学2年生まで油谷町にいて、そこから下関に戻りました。


幼少時代

CGW:ちなみにカメラマンも山口出身なんですよ。岩国市です。

米岡:それはそれは。岩国には錦帯橋という飛び道具があるじゃないですか。

CGW:しかも岩国は広島のTV局が入るんですね。これまたうらやましくて。今はインターネットがありますが、当時のTVのチャンネル数は大きかったですよ。

カメラマン:近くに岩国基地があるので、FEN(※)がラジオで聞けたのが自慢でした。

※FEN(Far East Network/極東放送網)
日本の米軍基地関係者とその家族向けの放送サービス。1997年まではFENと呼ばれていたが、現在はAFN(American Forces Network/米軍放送網)に統一

米岡:それもまたレアな話ですね(笑)。

CGW:まあ、そんな話は置いておいて。ご兄弟は?

米岡:2歳上の兄が1人、2歳下の妹が1人です。3人兄弟の真ん中ですね。兄はサラリーマンになり、妹は美大に進んで、今も別の仕事の傍ら絵を描いています。ファインアートですね。3人とも東京に住んでいます。


  • 父と兄・妹と

CGW:お兄さんは実家に残らなかったんですね。

米岡:そうなりますね(笑)。自分も山口県で生まれ育って、特に油谷町にいた頃は、周囲に娯楽なんてほとんどありませんでした。遊び場は山、川、海ですよね。虫を採ったり、魚を採ったり。おやつがわりに木イチゴを食べたり、柿の木に登って柿を食べたり。

CGW:まさに自然児ですね。

米岡:本当にそうですよ。今うちに3歳の子どもがいますが、東京で生まれたので、当たり前ですが育ちが全然ちがうんです。おやつの質からしてちがう。まず木イチゴから食べさせないと(笑)。

CGW:コンビニも当時はありませんでしたしね。

米岡:実際、そうした諸々が東京に来るモチベーションになりました。若い頃に抱きがちな、何もない地元からの東京に対する強い憧れといいますか。

CGW:まったく同じですね。自分も農家の長男だったので、上京するのが大変でした。

米岡:うちは母親がすごく教育熱心だったんです。その影響もあって、高校は県下有数の進学校といわれる下関西高校に入りました。父親も同じ高校だったので、その影響もありました。ただ、入学した段階で燃え尽きてしまって、成績は下から10番目くらいでしたね。「俺たちが底辺からトップを支えているんだ」って言ってました(笑)。

CGW:部活動などは所属されましたか?

米岡:サッカー部に入って、体育祭の運営委員長をやっていました。今でもCGアーティストには、前に出たがりな人と、そうじゃない人がいますよね。自分はその頃から出たがりでした(笑)。とりあえず何かやっておかないと、落ち着かなかったという。

CGW:そこから受験となります。

米岡:さっきも言いましたが、山口県から飛び出したくて慶應義塾大学か早稲田大学を志望していました。英語・国語・小論文だけで受験できる学部をねらい撃ちして、早稲田の文学部や慶應SFCなどに絞ったんです。ただ、現役時代はさすがに学力が足らず、1年浪人して、小倉(北九州市)の代々木ゼミナールに通いました。そこで人生最大のピークを体験しまして......。

CGW:それは何でしょう?

米岡:早稲田の全国模試で小論文が1位になったんです。小論文の偏差値が91、英語が86、国語が60点台だったという。判定もぶっちぎりでA判定でした。これでまちがいなく合格......と思いきや、またまた受験に失敗しちゃったんです。

CGW:まさに受験には魔物がいる......。

米岡:たまたま知らない漢字が出たとか、小論文のテーマにしっくりこなかったとか......。ただ、冷静に考えると国語、特に古文と漢文をちゃんと勉強していなかったのが敗因だったんでしょうね。2浪も覚悟しましたが、親の勧めもあって、併願していた明治学院大学に進学しました。半年くらい通いましたが、模試の結果が忘れられなくて、仮面浪人しました。

CGW:よほどの思いがあったんですね。

米岡:小論文の偏差値91という過去の栄光が忘れられなかったんでしょうね(笑)。今度は古文と漢文もしっかり勉強しました。模試の結果も前ほどの爆発力はありませんでしたが、3科目ともそれなりの点数が取れました。ただ、それでも早稲田の第一文学部は無理で、第二文学部と人間科学部に合格しました。

CGW:第二文学部って、いわゆる「夜学(夜間学部)」でしたよね(2014年廃止)。

米岡:そうなんですよ。そこに母親が抵抗感を示しました。ただ、人間科学部はキャンパスが所沢市なんですよね。当時はキャンパスの周りに何もありませんでした。もともと下関で悶々としていたのに、なんでまた所沢に行かなくちゃいけないんだ! と思い、第二文学部に進学したんです。それが巡り巡ってCGアーティストにつながりました。

CGW:面白いものですね。

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<2>CGとアルバイトと麻雀にハマった学生時代

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<2>CGとアルバイトと麻雀にハマった学生時代

米岡:正直、受験でまたまた燃え尽きてしまって、勉強は何でも良かったんです。都内で大学生活を楽しめればそれで良いという、典型的な文系の学生でした。しばらくのらりくらりしていましたが、1年生のとき「メディアアート」という授業がありました。そこでPhotoshopで写真を加工したり、ちょっとしたCGを作ってみるといった演習があり、写真にエンボス加工をしたり、レンズフレアを入れたりしたら、格好良いものができた。そこで、「俺はアートのセンスがあるかも」、という謎の勘違いをしたんです。昔からそういう、自分にわけのわからない暗示をかけて追い込んでいくところがありました。

CGW:若者の特権ですね(笑)。


米岡:正直それで、上手くいったり、いかなかったりしました。受験も「オレは早稲田・慶應に行かなければダメだ」なんて自己暗示をかけて失敗したわけで。そろそろ自己暗示作戦の限界を感じ始めた時期だったので、メディアアートの授業を受けてCGって面白いなと思いつつも、これを突き詰めるべきか疑問もあったんですね。これって結局いつもの自己暗示パターンじゃないか、とか。後になって、実は向いていなかったことがわかるんじゃないかとか。

CGW:なるほど。

米岡:ただ、他に選択肢が思い浮かびませんでした。まっとうに就職して生きていくことは、もうその頃には考えていなかったので。それで、自分はCGで行こうと決意しました。そんな頃、たまたま大学の友人が「LightWaveという面白いソフトがあるよ」と教えてくれたんですね。学生版を買っていじってみたら、2Dとは全然ちがう面白さがあったんです。併せてPCも購入しました。少なくない出費をしたこともあって、もう後には引けない、絶対に元を取ってやると勉強を始めました。

CGW:その頃、Windows 95はもう出ていましたか?

米岡:はい、映画『トイ・ストーリー』(1996)も公開されて、注目を集めていました。自分もLightWaveの本を買ったり、「CGWORLD」をはじめ、いろんなCG雑誌を買ったりもしました。授業中は、そういった本を読んでいるだけでしたね。

CGW:いきなりLightWaveってすごいですね。六角大王とかではなく。

米岡:あの頃はLightWaveがキラキラしていたんですよ。自分が勉強し始めて、しばらくすると「テライユキ」をはじめとした美少女CGブームが起きました。元ナムコで『リッジレーサー』シリーズに登場するCGキャラクター「永瀬麗子」を作られた、由水 桂さん(現・株式会社ケイカ代表)に憧れました。それに触発されて、キャラクターモデルをやってみたこともありましたね。当時はそういう時代でした。

CGW:永瀬麗子は良かったですね。本人が好きで作っている感じがしましたよね。また、そうでなければ、可愛くならないんですよね。

米岡:まったくそうですね。

CGW:アルバイトなどはされましたか?

米岡:いろいろやったあげく、最終的に業務用エアコン清掃に落ち着きました。JR駅構内のエアコンを分解して、汚水などを業務用の掃除機できれいにして、また組み立てて撤収するというものです。自分は第二文学部で授業が夜間だったので、昼も夜もアルバイトを入れていました。授業は18時〜21時の2コマだけだったので、昼間はアルバイトをして、授業が終わってからも夜勤を入れました。あっという間に経験値が溜まって、気がついたらバイト長になっていました。そこで仕事のいろはも学びましたね。


業務用エアコンの清掃アルバイト時代

CGW:具体的にはどんなことを?

米岡:ただ働くだけだとつまらないので、仕事のモチベーションをいかにつくるかということですね。そのひとつに、夜勤明けに麻雀をやるというのがありました。だいたい夜の12時くらいに仕事が終わって事務所に戻ってきて、始発を待つまでの数時間が暇なので、みんなで近くの雀荘に行って麻雀を打っていたんですね。1分でも長く麻雀を打ちたかったので、どうやったら時間を捻出できるか考えて、仕事のワークフローを徹底的に洗い出したんです。そうするといろんな無駄が出てきました。

CGW:なるほど。

米岡:具体的には仕事が終わった後、清掃器具を片付けて撤収するまでの業務を徹底的に効率化しました。そうしたら、自分が入っているときだけ1時間くらい早く作業が終わったんです。バイト長だったので、メンバーのシフトを調整して、麻雀が打てるメンバーを固めたりもしましたね。

CGW:ワークフローの改善が今に活きていますね。

米岡:そうなんですよ。実際バイトをすると、いつもワークフローが気になっていました。飲食店でアルバイトをすると、汚れものがシンクに溜まりますよね。何も考えていないアルバイトだと、ただシンクに溜まるだけ。自分はそうならないように、あらかじめ皿の大きさを揃えてシンクに浸けたりだとか。冷静に考えれば当たり前のことなんですが、あまりそこを意識しているアルバイトはいませんでしたね。

CGW:そもそも、それってアルバイトの仕事じゃない、という考えの人が多かったかもしれませんね。

米岡:そうそう。それって社員の仕事だよね、とか。でも、自分はさっき言ったように、出たがりな性格だったので、こういう風にした方が良いじゃん、と。アルバイトをやることで、仕事の有効な進め方を学びました。

CGW:良いアルバイト経験でしたね。

米岡:今も仕事や職場に不満をもっている人に「完成されていない組織ほど、自分が介入できるチャンスがあるから、ラッキーなんだよ」と言っています。エアコン清掃のアルバイトも、フローが完成されていなかったからこそ、自分の存在感を出せて、バイト長になれて、人事権を掌握できて、麻雀の時間も増やせました。

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<3>ガンプラからミリタリー、そしてゲームセンターへ

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<3>ガンプラからミリタリー、そしてゲームセンターへ

CGW:ちなみに、ここまで伺っても今の米岡さんを形成したコンテンツの話がほとんど出てこないんですが......

米岡:そうですね。じゃあ、その話をしましょうか。まずは世代的に『機動戦士ガンダム』ですね。初代ガンダムの再放送から入って、ちょうど漫画『プラモ狂四郎』が流行って、ガンプラブームの真っ只中でした。自分もいろいろ作りましたね。中学生になるとミリタリーに興味が移行して、戦車はタミヤ、飛行機はハセガワという。

CGW:王道ですね。

米岡:そういえば、母方の祖母がガンプラを買ってくれたことがありました。ところが兄にはザクレロで、自分にはアッザムでした(笑)。その思い出は、いまだに残っていますね。ガンダムとかザクとかじゃないんだという。今思えば通な渋い選択なんですが(笑)。

CGW:それはまた、玄人志向でしたね。

米岡:それなりに頑張って作りましたよ。筆塗りでしたけど、戦闘機であればスミ入れをしたりとか。ものすごく小さいデカールを苦労して貼ったりだとか。その頃からディテールに対するこだわりや、追い込みの意識はありました。戦車なら自衛隊の90式や、西ドイツのレオパルト1A4だとか。戦闘機なら米軍のF-14ですね。そこからロシア系に移って、Su-27とか。

CGW:ああ、ペレストロイカで情報規制が緩和されて、旧ソ連軍の戦闘機のプラモデルが出始めた頃でしたね。

米岡:そうですね。はじめてSu-27でプガチョフ・コブラを見たときは衝撃を受けましたね。その一方で、高校の頃からゲームセンターに通うようになり、大学生時代に『機動戦士ガンダム 連邦vs.ジオン』(2001)にハマりました。自分がゲームをしていたのは新宿スポーツランドの本館で、都内から強者が集まってきていたんです。

CGW:おお、新宿スポランといえば格闘ゲームの聖地ですね。

米岡:自分は昔からスーパーファミコンじゃなくてメガドライブ的な、ちょっと王道を外れたがる癖がたまにあって、『連邦vs.ジオン』でもゴッグとガンタンクをよく選択していたんです。周りは誰も使っていませんでしたが、自分はそこにポテンシャルを見出して、戦術などを極めました。同じように新宿スポランに来ていた、めちゃくちゃ上手いシャア専用ゲルググ使いと組んで、70連勝以上したことがありましたね。1時間以上座りっぱなしで、どんどん挑戦者を撃破していって。

CGW:突き詰め方が半端ないですね。

米岡:自分は広く浅くではなく、ものすごく狭い点を突き詰めるタイプなんです。そうなると、だんだん噂が広まっていきました。東京中の上手い奴らが集まってきて、彼らとゲームをすると、感覚が研ぎ澄まされていく感じがありました。今、ここに相手がいて、こういう状態だから、次はこう動くだろうな、というのが瞬時にわかるという。ニュータイプってこういうことかと思ったこともありましたよ。模試で全国1位になったときが人生最大のピークだったとしたら、2番めはこの『連邦vs.ジオン』時代でした。

CGW:今だったらそのままeスポーツの選手になっていたかもしれませんね。

米岡:そうかもしれませんね。それで、仲間のゲーマーと情報交換しているときに「自分のもっている情報は惜しみなく出したほうが良い」と思ったんです。これは今でも常々言っていることで、自分から良質な情報を発信していれば、周りにすごい人が集まってきて、もっとすごい情報が手に入り、自分がさらに成長できるという。自分の手の内を明かすことは、巡り巡って自分も得をするということですね。最近は「信用経済」という言われ方もしますよね。それに近いというか。あいつの言うことなら信用しようという。

CGW:それは1970年代生まれだからではないでしょうか? 1960年代生まれは、なぜか手の内を隠したがるんです。『ドルアーガの塔』(1984)で攻略法を隠して遊んでいたプレイヤーは、その典型例で。

米岡:ははは(笑)。ただ、最近CG業界でカンファレンスが増えたり、SNSやブログで情報を発信している人が増えているのは、逆にCGが複雑になりすぎて、1人ではどうにもならなくなっている現状があると思うんですよ。だからこそ、情報をどんどん出すことで、逆に他の情報を入手して、補っているんじゃないかなと。自分も2010年代になって、リニアワークフローが流行りだした頃、ゼネラリストはきついんじゃないかと感じるようになりました。

CGW:なるほど。

米岡:今はシェーダもテクスチャも物理的に正しいことが求められますよね。そうなると適当に「良い感じ」にやることが許容されづらい。いまCGを始めた人は、ソフトがものすごく充実している反面、覚えることが増えていて、気の毒だなと思いますね。自分がCGを始めた頃は、ものごとがシンプルでしたから。

CGW:モデリングして、テクスチャを貼って終わり、みたいな。

米岡:極論するとそんな感じですね。それだけで評価されていたので、今は大変だなと思いますね。

CGW:余談ですが、今のCGゼネラリストというと、現場上がりでひと通り全部のことがわかっている方々だと思うんですが、これから業界に入ってくる若い人たちは、将来的にゼネラリストになれるんでしょうか?

米岡:入る会社によってもちがうでしょうね。例えばCMメインのスタジオなら、否が応でも全工程を1人でやらないといけないですから。モデリングして、簡単なアニメーションをつけて、ライティングも自分で......といった具合です。

CGW:ゲームは無理かもしれませんね。もはや、全部の工程を見られませんから。それにともなって、人材育成が大きな課題となっています。

米岡:そうなんでしょうね。ちょっと話が前後しますが、例えば海外で働くとするじゃないですか。最初は「ハリウッドの仕事ができて楽しい」という状態だと思うんです。自分も行く前はそうでした。ただ、海外で働いて、すごく疲れたんですね。制作フローが分割されすぎていて、自分が作業をする範囲が非常に細分化されている上に、裁量がほとんどないという。それでも物量が多いので、決められた制作フローに従って作らないと、プロジェクトがぐちゃぐちゃになる。そういった映像制作に、自分は疲弊したところがありました。

CGW:ああ、そうなんですね。

米岡:これって、すごく皮肉な話ですよね。ハリウッドの品質を出すにはどうしたら良いか知りたくて海外に出たのに、途中で「これをずっと続けるのは大変だぞ」となったわけで。実際、モチベーションを保つのが大変だなと思いました。

CGW:ただ、だからこそ残業や徹夜が抑えられる面もあります。日本のゲーム業界も大手から順に、ずいぶんホワイトな職場になりました。

米岡:そこは分業の良いところなんです。責任の範囲が明確になるので、「これだけやったから、終わり」と言いやすい。そういう意味では自分も今、エフェクト専門の会社をやっているので、コンポジットは他にお任せしています。そのため傍目では、ものすごくヘビーなエフェクトをやっているように見られていますが、実際はスタッフには週末は休んでもらっていますし、平日も早く帰れる日は率先して帰ってもらっています。それは分業でしか成し得ないんですよ。

CGW:そこは米岡さんがベテランだからですよね。若手のキャリアという意味では今後も考えていかなければいけない話ですね。

米岡:そのとおりですね。

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<4>デジハリに通って自分の適性を知る

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<4>デジハリに通って自分の適性を知る

CGW:話を戻すとCGが好きで、『連邦vs.ジオン』が好きで、そのままゲーム業界に進んでいきそうなながれですね。

米岡:自分もCGを仕事にしたくて、大学卒業後にデジタルハリウッドに通ったんですが、そのときもゲーム業界に対する憧れがありました。そこでXSIになる前の昔のSoftimage(SOFTIMAGE 3D)を勉強したんです。それを勉強すればセガに行けるかなと。ちょうど『バーチャファイター3』(1996)の全盛期でした。ただ、自分は対戦格闘ゲームはあまり遊ばず、『スパイクアウト』(1998)にハマっていました。

CGW:当時のSoftimageはキャラクターアニメーションに強かったですからね。実際、格闘ゲームの歴史と共に歩んできたところもありましたし。

米岡:ただ、改めて勉強してみると、自分はキャラクターアニメーションが下手だということがはっきりわかって(笑)。学生時代にいろんなジャンルに手を出して、ある程度結果が出たのがモデリングとエフェクトだったんです。LightWaveでパーティクルをばーっと出して、戦闘機が出てくるムービーを作っていました。その作品で運良く賞をいただけたこともあり、自分はキャラクターアニメーションに向いていないと見切りをつけました。そこはもう自己暗示はかけずに(笑)。


学生時代に制作した戦闘機ムービーの一部

CGW:当時から『エースコンバット』などの戦闘機ゲームもありましたよね。

米岡:『エースコンバット』シリーズもすごく好きで、最初に『エースコンバット2』(1997)を遊びました。実はあのゲームで背景づくりについて学んだんです。戦闘機もさることながら、背景の作り方がすごいなと思ったんですよ。遊んでいて、すごく奥行きを感じたんですね。仔細に分析したところ、ある程度のところで地平線にフォグをかけて、曖昧にしていることがわかりました。普通に天球とグラウンドを置くと、地平線がくっきり見えすぎてしまいますからね。

CGW:はいはい。

米岡:その上で、ちょっと地平線を高めに設定して、消失点を上に上げている感じなんですね。その結果、普通のゲームよりも地平線までの距離が倍以上に感じられて、世界に奥行きが感じられたんです。これは使えるなと思って、LightWaveで作っていた自分の作品に応用したところ、背景がものすごくリアルになりました。そこから背景モデリングが面白いなと感じるようになったんです。

CGW:背景が好きな方って、「『ブレードランナー』が好き」「世界観を表現するのに向いている」といった理由を挙げられることが多いんですが、背景に関する工夫がきっかけだったというのは、面白いですね。

米岡:もともと綺麗な風景などが好きだったというのはありました。その上でそういった気づきが背中を押したんだと思います。

CGW:綺麗な世界や自然が好きだったんですか?

米岡:そうですね。余談ですが、昔は絶対に山口県を出たいと思っていたのに、仕事を始めてから山口県は自然の宝庫であることに気づきました。秋芳洞しかり、角島しかりですね。他に子どもの頃、よく長門市の青島に家族で遊びに行ったんです。断崖絶壁がある景観地でした。その後、デジタル・メディア・ラボで『戦国BASARA2』の崖があるシーンの背景モデリングを手がけることになったとき、そのときのことを思い出しました。さっそく実家に戻って両親とドライブがてら崖の写真を撮りに行き、それを下敷きにしてイメージベースドモデリングしたんですよ。そうしたら、めちゃくちゃリアルになりました。地元の良さを再発見した感じです。

CGW:ああ、そういうことって、ありますよね。それに昔は隔絶感がすごかったですが、今はインターネットがありますしね。

米岡:まさにそうですね。

CGW:話を戻すと、デジハリに行くと言ったとき、ご両親の反応はどうでしたか?

米岡:すごく反対されました。ただ、そこは最後の自己暗示ということで、押し通しました。大学在学中から行なっていた自主制作に手応えを感じていたこともあり、いろいろ調べたところ、デジハリが一番目立っていたんです。ここだったら安心という思いもありました。

CGW:そうなんですね。

米岡:ただ、さっきも言ったように、学校ではSoftimageの授業を取りましたが、今ひとつ自分に合わなくて、自分でLightWaveを勉強するのに力が入りました。それに当時はモデラーに興味があったので、LightWaveのモデリングのしやすさは魅力でした。そんな風に自分の向き不向きがハッキリわかったのは良かったですね。

CGW:当時はまだツールごとの学習コストが高かったんですね。

米岡:そうですね。何でこれができないの、といった感じで。最初からSoftimageだったら、またちがったのかもしれませんが。

CGW:いや、Softimage使いにはその後も茨の道が......。

米岡:確かにそうですね(笑)。だからふり返ってみれば良かったのかもしれません。

CGW:デジハリは何年のコースでしたか?

米岡:たしか1年間でした。半年間授業があり、それから数ヶ月で卒業制作をして、発表会があって、終わりという。SoftimageでがんばってPIXARっぽいキャラクターアニメを作った覚えがあります。ただ、クオリティ的にいえばLightWaveで作った戦闘機のムービーの方が断然良かったですね。アニマロイドでお世話になった北田清延さんも関わった『PROJECT-WIVERN』の世代でしたから、LightWaveでああいうのが作れちゃうことに衝撃を受けました。


CGW:早稲田大学の第二文学部に入って、たまたまメディアアートの授業を受けて、たまたまCGに詳しい友人がいて......偶然が重なっていますね。

米岡:まったくそうですね。ただ、自分は第二文学部の中でも表現・芸術系専修というコースで、そこは表現やアートに関することなら何をやっても良かったんです。文章を書いても良いし、演劇や絵画を勉強しても良い。自分が在学中に授業そっちのけで「CGWORLD」を読んでいて卒業できた理由も、浪人時代から小論文をものすごく勉強していたので、レポートの書き方に慣れていたことがありました。レポートが苦手という学生は多いと思うんですが、自分は反対だったんですね。

CGW:なるほど。

米岡:逆に言うとレポート重視の授業を選んで履修したとも言えるんですけどね。おかげさまで大学ではほとんど勉強をしなくても、卒業できました。卒業論文もCGの歴史に関するものでした。

CGW:所沢に行かなくて良かったですね。

米岡:本当にそうですね。さっきも言いましたが、母親がとにかく反対したんですよ。ただ、自分もさすがに、オレのやりたいようにやるよって。だから半分冗談、半分本気で「金は出しても口は出すな」と言っていました(笑)。それで結果を出せたから、良かったですね。自分も子どもには好きなようにさせようと思います。ただ、自分と同じような素行だったら、きっと口を出してしまうと思いますが。

CGW:そりゃ、下関西高校に入って下から10番以内だと、親も心配になりますよね。しかも2浪までして(笑)。

米岡:結果を出してからものを言えよって(笑)。

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<5>笹原組で修行し、フリーランスの道へ

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<5>笹原組で修行し、フリーランスの道へ

CGW:最初に就職されたのはアニマさんなんですね。昔、笹原和也さんと一緒にサバイバルゲームをしたことがありますよ。

米岡:正確にはアニマになる前の、笹原組ですね。2002年から3年くらいいたような気がします。ご存じの通り、笹原さんはめちゃくちゃサバゲーが好きでした。当時自分はもっとストイックだったので、笹原さんの仕事が忙しいのにサバゲーに行くスタイルに、ちょっと納得がいっていませんでした。CGアーティストとしての方向性のちがいというか(笑)。

CGW:なぜ笹原組に入ったんですか?

米岡:デジハリを卒業する上で、フロム・ソフトウェアやスクウェア・エニックスなどに就職活動をしましたが、ちょっと敷居が高かったんです。そんな頃、声をかけてくれたのが笹原さんだったんですよ。当時自分はサメがマイブームで、ホオジロザメのCGを作って展覧会に出したら、笹原さんが「こいつは、ちょっと見込みがありそうだぞ」と。それで会社に呼ばれました。当時の笹原組は新人に課題を出していたんです。1ヶ月くらいで課題をこなして、一定以上のクオリティだったら晴れてスタッフになれるというしくみです。


  • 笹原氏が目を止めたホオジロザメのCG作品

CGW:なるほど。

米岡:自分に与えられた課題は映画『エネミー・ライン』(2001)で、戦闘機のF/A-18が地対空ミサイルに撃墜されるショットをLightWaveで再現するというものでした。戦闘機のモデルは自分が以前作ったものを流用したと思います。その上で背景とエフェクトを作って、10秒くらいのショットにまとめました。今見ても、よくLightWaveでここまでやったな、というクオリティだったと思います。それで、晴れて笹原組の一員になりました。

笹原組の課題として制作したムービー/Enemy Line from Kei Yoneoka on Vimeo.

CGW:良かったですね。

米岡:本当にそうですね。ちょっと話が飛びますが、2015年にステルスワークスを起ち上げて、今年で4期目になります。当初は笹原組の先輩だった河野真也と一緒にやるはずだったんですがすぐには叶わず、それがようやく今年の9月から共同経営者としてジョインしてくれることになりました。河野は笹原組の後、スクエニの第2ビジネス・ディビジョンで、『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』のエフェクトアウトソーシングディレクターを務めた人物です。自分は直感的に動きますが、彼は論理的に動くタイプで、自分にないものをもっています。

CGW:お互いに補完関係にあるんですね。

米岡:ステルスワークスはこれまで自分が前に出てやってきましたから、今後もそういうカラーで進んでいくと思いますが、そこに河野が参謀的な役割で入ることで、今まで自分がほったらかしにしてきた会社のあれこれをやってくれて。自分が相当身軽に動けるようになりました。

CGW:いまステルスワークスさんは何人くらいいらっしゃるんですか?

米岡:コアメンバーは7〜8人で、全員合わせると10人くらいです。ただ、厳密には社員ではなくて、全員が業務委託契約です。今後は正社員を進めていきます。それもあって河野に入ってもらったかたちです。自分はそのあたりは適当で、単純にエフェクトが作れれば良いというタイプですから。

CGW:雇用保険とか、源泉徴収とか、すごく面倒くさいですからね。それも笹原組でのご縁が巡り巡って......ですよね。

米岡:本当にそうですね。笹原組はさっきのゲームセンターの話と同じで、若手の凄腕が集まっていたんですね。河野もそうだし、ILMのエフェクトアーティストとして第一線で活躍されている後輩の藤田竜士や、コロビトの大島夏雄君など、同世代で活躍している人材が、磁石に引き寄せられるように集まってきました。当時の自分は若かったので、最初は何かといえばサバゲーをしていたりした笹原さんに対して、何かちがうものを感じていましたが、今から考えればCGアーティストが楽しめる仕事をしやすい場づくりをしていたんですね。

CGW:それが社風になりますし、それに惹かれたCGアーティストがまた、集まってきたでしょうし。

米岡:そうなんですよね。自分も一介のCGアーティストから経営者になって、そういうこともアリなんだなと思うようになりました。自分はサバゲーのようなでかいイベントをオーガナイズするメンタリティはないので、そのあたりはすごいなと思いますね。

後編へ続く>>

11月30日(金)19時~
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