「身体圏」研究が変える未来の社会。立命館大学と企業パートナーの挑戦を支えるクリエイティビティとテクノロジー
スマートフォンを手放せない生活、AIが日常に溶け込む社会。私たちはフィジカルな現実とデジタル空間を同時に生きることが当たり前になった。
立命館大学は、その状態そのものを研究対象とする拠点「立命館先端クロスバースイノベーションコモンズ(CVIC:シービック)」をびわこ・くさつキャンパスに起ち上げた。皮膚の表面からデジタルの世界へと広がるグラデーション全体を「身体圏(しんたいけん)」と定義し、人がより良く生きるための答えを探す、世界でも前例のない試みだ。
この研究は、主導する大学に加え、映像、音響、モーションキャプチャ、MRという最先端技術を持ち寄った企業パートナーたちの存在が欠かせない。今回はCVICの開設に深く関わったキーマンたちに話を聞き、身体圏研究が目指すものとは何かを紐解く。
身体圏研究が問いかけるもの――人とデジタルが溶け合う時代の「私のための研究」
皮膚の外側に広がる「身体圏」
立命館大学映像学部教授の大島登志一氏は、キヤノンでのVR・MR研究開発を経て、2007年に映像学部創設とともに着任。テクノロジーとクリエイティビティの融合を軸に、技術を人の暮らしへ還元する研究を推進してきた。そのキャリアが結実した研究テーマが身体圏だ。
「私たちは常にリアルの世界に生活しながらも、情報に囲まれて生きていて、すでにそれが不可分になっている。フィジカルワールドとデジタル空間は全く分けることができなくて、両方とも同時に私たちは体験して生きているわけですね」。
従来、「身体」といえば皮膚の表面が境界線だった。しかし大島教授が定義する身体圏とは、皮膚からデジタルの世界に至るグラデーション全体を包み込む概念だ。まるで地球を包む大気圏のように、人を核として広がるデジタルの生活圏。教育・医療・職場など、人が生活するあらゆる場面が研究の射程に入る。
立命館大学 映像学部 教授
多重環境が生む、解かれていない問い
身体圏研究が生まれた背景には、人類としての根本的な矛盾がある。現代人の生理的な構造は20万年前からほぼ変わっていない。しかし情報量は急激に膨れ上がり、社会構造は複雑さを増すばかりだ。大島教授はこの状況を「多重環境」と呼ぶ。
「人とテクノロジーの界面(かいめん)、この部分がまだ解明されていない部分が多々あるんだと思います。情報過多のこの世界の中で、人間という器がどれほどの情報を受け取れるのか。それがこの研究の起点になります」。
XR、認知心理学、人文学、社会科学、脳科学など、デジタルと人との関わりを研究する分野はそれぞれ存在してきた。しかし問題は、それらをひとつの場で横断的に研究できる環境がなかったことにある。「それをワンストップで研究できる環境というのは、これまでは意識的にはなされていなかった」と大島教授は語る。身体圏研究はその空白を埋める試みだ。文部科学省の大型事業「J-PEAKS」への採択も後押しとなり、多様な学部やキャンパスの研究者が参画する体制のもと、CIVICという象徴的な拠点が生まれた。
あらゆる分野をつなぐ「サロン」でCGが果たす役割
大島教授が身体圏研究の場を例えるのは「サロン」という言葉だ。各研究者がそれぞれの専門という「点」を持ち寄り、対話を通じて「線」へ、さらに「面」へと発展させていく。産学連携においても、医療・教育にとどまらず、今は想像もできない応用の可能性が広がっている。「どんな企業さんあるいはビジネスが、この身体圏研究の恩恵を受けられるのかというのは、おそらく今現在想像する範囲を大きく超えるものではないかなと思っています」。
その中で、CGはこの研究における重要な表現基盤として位置づけられている。「XRという技術を使うと、空間があり、身体があり、物語があり、インタラクションがある。こうしたものを自由に組み合わせることで、新しい感じ方・新しい体験をクリエーションできるツールになる」と大島教授は語る。身体圏研究が多重環境の中で人の体験を設計、計測、分析する営みである以上、その体験を具体的な形として生み出すCGの役割は不可欠だ。テクノロジーを研究するだけでなく、クリエイティブなエンジニアリングによって「人の暮らしに活かせる創造的な表現」を生み出すこと――それが大島教授がキヤノン時代から一貫して追い求めてきた姿勢であり、身体圏研究においてもCGはその中心的な担い手となる。
そして、この研究の本質を問われたとき、大島教授はこう言い切る。「身体圏研究はひとりひとりにとって『私事(わたくしごと)』として、私のものですって言っていい研究です。誰にとっても『私』。私のための研究、私のための成果が得られるはずの研究なんです」。
世界最先端の多重環境体験システム――CVICを支える技術と、その先にある研究が目指すもの
「広く、速く、細かく」。前例なき要件に挑んだ100台のカメラ
CVICの中核を担う「X-Verse Arena(クロスバースアリーナ)」の開設にあたり、3社のスペシャリストたちが前例のない難題に挑んだ。モーションキャプチャシステムを担当したのはクレッセントの一色康平氏だ。採用したのはViconの最新カメラ「Valkyrie」で、天井に80台、床置きに20台、計100台という大規模な構成だ。壁面は全周スクリーン、床面も多用途に使うため、カメラの常設場所が天井しかないという厳しい制約の中での設計だった。
「天井からだけでもキャプチャできるという要件を満たしつつ、速い動作や、指まで撮影できる精度も必要でした。モーションキャプチャ専門のエンジニアが事前にシミュレーションして、アリーナの可能な限り広範囲でキャプチャできるよう、死角ができない構成を確認した上で設置しています。床置きのカメラを加えることで指まで撮影できる構成を実現しました」と一色氏は語る。大島教授はこの要件をこう振り返る。「『広い』、『速い』、『細かい』。この3つを同時にカバーできるのかというところで、苦労してもらいました」。
さらに、マーカーを取り付けずに動きを取得できるViconの「マーカーレスシステム」も導入しているという。「意識しない行動を計測する、といったシチュエーションではマーカーレスがいい」と大島教授は語る。加えてリアルタイムでボリュメトリックビデオを生成・配信できる「Volu☆ME!」も採用。「人物の3Dデータをその動きごと、システムに入った瞬間からリアルタイムで生成できます。異なるキャンパスの研究者がアバターとして相手のメタバース空間に現れるなどといった活用が可能です」と一色氏は語る。
株式会社クレッセント ソフトウェアエンジニア
360度没入空間を体育館スケールで実現する
映像・音響システムを担当したのはビジュアル・グラフィックスの目次 護氏だ。Barco製4K立体視対応プロジェクタ14台、全周囲を覆うハードスクリーン、16台のスピーカーと4台のサブウーファー、そして映像再生サーバとクラスターPCの構築まで担った。「今まで経験した中で一番のスケールです。360度投影で床面もスクリーンというのは、今までにない経験でした」と目次氏は語る。
特に苦心したのが「影の問題」だ。「360度が全部投影面になる空間では影ができやすい。それを避けるためプロジェクタをぶどう棚から吊り下げる構成に変更し、人が立っても壁面に影ができにくくしました」と目次氏は語る。没入感へのこだわりは色選定にも及んだ。「通常、機材は黒いものが多い。でも没入感を大切にするなら、アリーナ内の機材はすべて白に統一する必要がありました」と目次氏は語る。「床置きのスピーカーを白にするだけで、立体物なのに全く気にならなくなる。効果は絶大でした」と大島教授も語る。
ビジュアル・グラフィックス株式会社 システム・インテグレーション シニアマネージャー
MR型HMDが生む「現実と仮想が共存する体験」
キヤノンITソリューションズの田和健治氏が導入したのは、MR型ヘッドマウントディスプレイ「MREAL」12セットだ。「大きさ感や距離感に違和感があると、正しい計測や研究結果につながらない恐れがある。年々進化するハイスペックなPCのGPUでレンダリングした映像を低遅延で安定的にHMDに転送できる有線構成が必要なのはそのためです」と田和氏は語る。
有線12台の同時運用には、四隅に3台ずつ配置してケーブルの干渉を防ぐ設計を施した。「常設設備で12台という構成はこれまでに経験がありませんでした。運用マニュアルも弊社で準備し、キャスターで屋外にも持ち出せるコンパクトな仕立てにもこだわりました」と田和氏は語る。大島教授はこう評価する。「各社の提案が総合的に非常に相性のよい環境になっている。ハイスペックなGPUのラップトップPC、MREALとViconの組み合わせは、まさにその象徴です」。
田和健治氏
キヤノンITソリューションズ株式会社 製造ソリューション事業部 エンジニアリングソリューション営業本部 第二営業部 担当課長
世界唯一無二の研究設備。CVICの全貌とその先
世界唯一無二の設備が生まれるまで
CVIC設立プロジェクトは2024年12月に検討が開始され、2025年11月の入札を経て、年明け1月から構築を開始。3月10日に納品が完了した。体育館規模の没入型映像空間を、わずか2ヶ月弱で仕上げたことになる。
可視化システム全体を担ったビジュアル・グラフィックスの橋本昌嗣氏は「経験豊かな会社さんの協力を得て、特に問題なくスムーズに構築できたところが大きい」と語る。1月から2名体制で現地に常駐し、課題が生じるたびに大学側と迅速に対応した。「世界で初めてのシステムなので、すぐに判断しなければいけないことは大学側と相談しながら対応するようにしました」と橋本氏は語る。
橋本昌嗣氏
ビジュアル・グラフィックス株式会社 取締役 Visual Media Intelligence事業担当
14台のプロジェクタを「ひとつの映像」に統合する
今回最大のハードルは、14台のプロジェクタをシームレスに融合させる作業だった。「重なり合う部分の輝度を調整して、あたかもひとつのプロジェクタのように見えるようにする設定が必要です。この難易度は非常に高い」と橋本氏は語る。短焦点プロジェクタを採用し、壁の近くに人が立っても影が映り込まない設計を徹底した。操作面では、クラスターの隣に設置したタッチパネルを一度押すだけで全システムが起動する仕組みを構築。「PCを触らなくても動作できるという点は特に注意してつくりました」と橋本氏は語る。X-Verse Arena内でのデモも、iPad mini1台でできるようにしてあるという。
導入機材の全容はこうだ。映像系では専用スクリーン、Barco製4K立体視対応プロジェクタ14台、映像・静止画再生用のAmateras Server、OpenGL/Unity/Unreal Engine用のLenovo ThinkStation14台で構成するリアルタイムCG出力用PCクラスター、映像編集向けデータ共有サーバのEditShare。音響系ではアコースティックフィールドによる立体音響システム。これらを統合することで、研究者が機材を意識せずに多様な実験環境を構築できる場が実現した。
機材選定では、技術を「進化・変わらない・退化」の三層で捉えるアプローチを取った。「コンピュータグラフィックスの技術は常に進化しているわけではない。この3つをいかに組み合わせてバランスさせるかが難しい」と橋本氏は語る。「進化」の象徴として、構築中にエルザ ジャパンの協力を得て最新GPU「NVIDIA RTX PRO Blackwell」の採用が実現した。「GPU性能はすごく上がってきていて、AIもどんどん使えるようになっています。構築している間に8Kの360度ドローンが発売されるなど、日進月歩で伸びていると実感します」と橋本氏は語る。
「退化」している部分は、1990年代は、ひとつのOSで64CPU、複数のグラフィックスボードを搭載し、システムの規模により内部バスも拡張できた。現在の主流はクラスター構成となっており、起動の操作などが煩雑となる。その使い勝手を補うのが前述したタッチパネルやiPadとなる。
世界唯一無二の場から、世界唯一無二の成果を
大学側との要件整理では、仕様書に書かれた内容を超えた先読みを重視した。「『これがあったら便利』というところは仕様書になくても、運用上のノウハウをもとに当然のようにつくるという感じです」と橋本氏は語る。実機デモを通じた共通言語化も徹底し、今では大学の副学長自らがアリーナでデモの説明ができるほどになった。大島教授も「それこそが、むしろ私が望んでいたことでした」と言葉を添える。
納品前から学内でのデモ依頼が相次ぐという嬉しい誤算も生まれた。「立命館大学全体としての関心の高さの裏返しですね」と橋本氏は語る。今後については「研究テーマに合わせて、柔軟に対応できることが重要。対応が難しいことは大学と相談しながら優先順位をつけていきたいです」と橋本氏は語る。そして、プロジェクト全体の価値をこう語った。「世界唯一無二の研究設備で、世界唯一無二の研究が実施されて、世界唯一無二の成果が出る。そこまで繋げられると嬉しいです」。
「私のための研究」が世界を変える
Viconの100台のカメラが人の動きを捉え、14台のプロジェクタが全周囲を映像で包み、MR型HMDが現実と仮想の境界を溶かす。これだけの技術がひとつの場に結集したのは、単に高度な設備をつくるためではない。フィジカルとデジタルが重なり合う多重環境の中で、人がより良く生きるための答えを探すためだ。
エンジニアとクリエイター、研究者と企業、文系と理系――。身体圏研究は、これまで別々に存在していた「点」を「線」へ、そして「面」へと広げていく場として機能する。この研究に決まった入口はない。テクノロジーに興味がある人でも、映像表現を追求したい人でも、「自分の生き方をより良くしたい」という思いを持つ人なら、誰にとっても入り口になりうる。
「身体圏研究は、ひとりひとりにとって『私事(わたくしごと)』として、私のものですって言っていい研究です」。――大島教授のこの言葉は、すべてのクリエイターに等しく向けられている。世界唯一無二の研究拠点から、これからどのような成果と表現が生まれるのか。立命館大学とそのパートナーたちの挑戦から目が離せない。
【レポート】ポテンシャルを最大限に引き出したオープニングイベント
2026年5月15日、新設されたCVIC内のX-Verse Arenaは、オープニングイベントの開催とともに、そのベールを脱いだ。集まった来場者の前に提示されたのは、最先端の映像、音響、モーションキャプチャ、MR、そして香りが高次元で融合した、まさにSFの世界に登場する「ホロデッキ」を彷彿とさせる空間だ。
身体圏を視覚化する、8K 360度全景のオープニング
イベントの最初を飾ったのは、イメージスタジオ109が制作したオープニング映像だ。8Kエクイレクタングラー形式で描かれた360度の全景映像が、壁面から床面までをシームレスに包み込む。皮膚の表面からデジタルの世界へと広がるグラデーション――。まさに大島教授の提唱する「身体圏」の研究思想を、圧倒的なビジュアルの臨場感によって観客の脳裏に焼き付けた。
テクノロジーが咲かせる、バーチャルお花畑「Flower Garden」
続いて披露されたのは、モーションカメラと空間のインタラクティブ性を直感的に体感できるデモ「Flower Garden」だ。立命館大学の伊坂忠夫副学長のアイデアをもとに企画され、その特長を最大限に引き出すため、副学長自らがアレンジを手がけたバトントワリング部の学生によるパフォーマンスとともに披露された。
体験者がマーカーのついた花を手に取ると、X-Verse Arenaの空間全体に色鮮やかな花々が次々と咲き誇る。開発のフレームワークはビジュアル・グラフィックスの橋本氏が設計。モーションキャプチャの担当はクレッセントだ。TouchDesignerによる制作を手がけたSTYLYは、体験者が最も心地よく没入できるよう、花が咲き誇るタイミングと消えていく時間軸を入念にチューニングした。
さらに、アロマジョインの香りデバイス「Aroma Shooter 3」から、花の香りが空間に漂う。X-Verse Arenaの白いスクリーンという空間美を損なわないよう、「白い限定モデル」のAroma Shooter 3が特別に用意された。
キヤノン技術者をも驚かせた、東大寺の大仏の「実在感」
3番目に披露されたのは、キヤノンEOS VRシステムで撮影された東大寺大仏の立体視映像だ。広視野の立体映像として投影された大仏は、圧倒的なスケール感と実在感を伴って観客に迫る。キヤノンの技術者さえも驚嘆させたというレンズの限界に挑む活用法は、厳かな雰囲気を創出。空間にはお香の香りが漂い、視覚・聴覚・嗅覚が完全にハックされる体験となった。
宮殿を歩き、音に近づく。五感で没入するバーチャル演奏会「ボレロ」
4番目は、キヤノンITソリューションズとクレッセントからのライセンス提供により実現した、バーチャル演奏会「ボレロ」だ。
X-Verse Arenaの巨大な壁面と床面全体に、壮麗な宮殿の内部が映し出される。来場者がヘッドホンを装着し、MREALを覗き込むと、そこには宮殿の中で「ボレロ」を奏でるオーケストラが突如として現れる。空間に配置された80台のViconカメラにより、MREAL越しにどの角度から自由に見回しても、交響楽団は常に正しい位置に固定されている。さらに、特定の楽器演奏者に自らの足で近づくと、ヘッドホンから聴こえるその楽器の音がリアルに大きくなる。身体の動きとデジタル空間が完全に同期する、身体圏研究の真髄を行くデモだ。
滋賀県知事も体感した、琵琶湖の圧倒的パノラマ
5番目に披露されたのは、地元・滋賀の象徴である琵琶湖を捉えた360度ドローン映像だ。この撮影には、8K360度全景をカバーできるInsta360の「Antigravity」を採用。X-Verse Arenaの全周囲スクリーンの可能性を限界まで示すダイナミックな空中散歩は、視察に訪れた三日月大造滋賀県知事を深く魅了した。
キャンパスから宇宙へ。描かれる新たなフロンティア
最後に上映されたのは、立命館大学びわこ・くさつキャンパスから地球を飛び出し、遥かなる宇宙空間へと誘う立体視映像だ。制作はビジュアル・グラフィックス。現在、立命館大学が設置を構想している「宇宙地球フロンティア研究科(仮称)」を見据えたこの壮大なビジュアルには、来賓として体験した小林茂樹文部科学副大臣からも大きな期待が寄せられた。
「身体圏」研究の未来を感じさせるデモの数々
巨大空間における立体視、立体音響、モーションキャプチャ、MR、そして香りの融合。今回のオープニングデモで示されたのは、CVICという世界唯一無二の施設が持つ「ポテンシャルの片鱗」にすぎない。
最先端のクリエイティビティとテクノロジーが交差するこの「サロン」から、人々の暮らしを、そして「私」の生き方を変えるどのような研究成果が生まれていくのか。立命館大学と企業パートナーたちが挑む「身体圏」研究の未来を感じさせるオープニングイベントとなった。
提供
株式会社エルザ ジャパン
www.elsa-jp.co.jp
TEXT & EDIT_阿部勝孝 / Masataka Abe(CGWORLD)
PHOTO_中村昭一 / Shoichi Nakamura(レブフォトワークス)