>   >  好きなことに真摯であれ~「日本一の泣き虫プロデューサー」バンダイナムコスタジオ小澤至論氏が語るキャリア論
好きなことに真摯であれ~「日本一の泣き虫プロデューサー」バンダイナムコスタジオ小澤至論氏が語るキャリア論

好きなことに真摯であれ~「日本一の泣き虫プロデューサー」バンダイナムコスタジオ小澤至論氏が語るキャリア論

若者が過度に失敗を恐れるようになった、と言われて久しい。その背景にあるのがSNSの普及とネット炎上だ。こうした中、高校や専門学校などで精力的な講演活動を続けているクリエイターに、バンダイナムコスタジオの小澤至論氏がいる。格闘ゲームの開発に長くかかわり、「日本一の泣き虫プロデューサー」を自称する小澤氏に、自身のキャリアをふり返りつつ、学生や若手クリエイターに対する思いを聞いた。


INTERVIEW&PHOTO_小野憲史 / Kenji Ono
EDIT_三村ゆにこ / Uniko Mimura(@UNIKO_LITTLE
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.



映画『レンズマン』に憧れて3DCGの世界に入った

CGWORLD(以下、CGW):今日はよろしくお願いします。「日本一の泣き虫プロデューサー」って良いキャッチフレーズですね。

小澤至論氏(以下、小澤):ははは、ありがとうございます。

  • 小澤至論/Michinori Ozawa
    バンダイナムコスタジオ

CGW:泣き虫なのは子供のころからですか?

小澤:学校一の泣き虫でした。今ではゲーム業界一の泣き虫だと思っています。ただ、叩かれて痛いから泣くとかじゃなくて、自分で言うのもおこがましいですが、優しすぎて泣くんですね。

私は人の感情を察しやすい性格らしく、苦しんでる人の気持ちがブワーッと入って来てしまうんです。苦しんでる人を目の前にして何もできない自分を責めてしまい、自分の非力さを感じると涙が出てしまいます。それゆえに、苦しんでいる人を救うための力を手に入れたくて、何でも自分で身に付ける癖がつきました。

CGW:ご出身はどちらですか?

小澤:青森県出身で1973年生まれです。青森戸山高等学校から、北海道の道都大学 美術学部 コンピュータグラフィックス専攻に進学しました。自分が通っていた頃は紋別市という、北海道でも北のはずれのような場所にキャンパスがありましたし、高校も2013年に青森県立青森東高等学校に統廃合されましたね。大学は札幌市の近くにある北広島市に移転した後、2017年に星槎道都大学と改称され、コンピュータグラフィックス専攻もなくなってしまいました。

CGW:1990年代の前半ですよね。当時のCG教育はどのような感じでしたか?

小澤:大学では3DCGでプリレンダーのムービーをつくりました。ただ、今みたいに人型のキャラクターなどをつくって複雑な動きをつけるのではなく、球や円柱などを組み合わせて動かすだけで精一杯という時代でした。ツールはもう忘れてしまいましたね。PCはWindowsでしたが、3.1だったか95だったか......。演習用にフロッピーディスクを100枚くらい購入して、使っていた覚えがあります。

CGW:もともと3DCGに興味があったのですか?

小澤:はい。映画『SF新世紀レンズマン』(1984)を見て衝撃を受けました。3DCGの「存在しない質感でありながら、リアリティをもっている世界」に本当に憧れて夢中になりましたね。これと前後して、映画『ドラえもん のび太の魔界大冒険』(1984)で3DCGのロゴが使われ始めたんですよ。だんだんと3DCGが身近になっていった時代でした。

CGW:当然ゲームもお好きだったのでしょうか?

小澤:どっぷりとハマっていました。大学で試験の前日、閉店までゲームセンターで遊んでしまい、落第したほどです(笑)。ただ、青森も北海道も田舎だったので、ゲームセンターに新作ゲームがあまり入ってこなかったんですよ。だからこそゲームを遊びたいという気持ちが強くなりました。ゲーム雑誌などで画面を見て、「いったいどんな内容なんだろう」って。大学でもその思いは変わらず、ゲーム業界に進む以外には考えられませんでした。

CGW:就職活動はいかがでしたか?

小澤:新卒で就職したのは1996年です。就職氷河期でしたが、なんとかデザイナー職で潜り込むことができました。ちょうどPlayStationが盛り上がりはじめ、業界全体で2Dから3Dに移行していった頃で、最初に配属されたのはアーケードの3Dレースゲームを開発する部署でした。余談ですが、当時はゲーム会社が3Dゲームを作るとなると、まずレースゲームから始めるケースが多かったようです。

CGW:平面ステージの上を箱形のオブジェクトが移動するだけで、構造としてはシンプルですからね。

小澤:そうそう。そこで背景アーティストを担当しましたが、当時は格闘ゲームが大ブームでもあり、自分でもどうしてもつくりたくて。レースゲームのリリース後に、格闘ゲームのチームに異動させてもらいました。ただ、そのチームには自分より絵が上手いデザイナーが山ほどいたんですよ。自分でも活躍できるパートはないかなと見わたしたとき、アニメーター(モーションデザイナー)が手薄だったので、背景アーティストからアニメーターに鞍替えしました。

CGW:ご自身の適性と周囲の状況を見据えた結果なんですね。余談ですが、アニメーターは今でもマイナーな職種の1つです。小澤さんがお考えになるアニメーターの魅力とはどういったものですか?

小澤:キャラクターアニメーションを格好良く見せるためには、現実の物理法則と、テレビアニメなどに見られる物理法則を無視したケレン味のある動きを上手く融合させることが重要です。これが上手くできたとき、つくっていて快感が得られるんですよ。ただ、なかなかこの感覚が伝えられないんですよね。



プロデューサーになれば現場を幸せにできる

CGW:その後、2000年に旧ナムコに移籍されますが、当時のナムコはどのように映っていましたか?

小澤:ちょうどゲームセンターで『ソウルキャリバー』(1998)、『鉄拳タッグトーナメント』(1999)が稼働していた頃で、画面上でキャラクターがまるで人間のように演舞していました。それを見て、すごい技術力をもっている会社だなと驚かされました。転職活動では8社くらい受けて全て内定をもらいましたが、そうした憧れもあってナムコを選びました。

CGW:ナムコではどういったタイトルに携わられましたか?

小澤:最初に担当したのが『鉄拳4』(2001)で、その次が『ソウルキャリバーII』(2002)です。そこから『鉄拳5』(2004)、『鉄拳6』(2007)と、全てアニメーターとして開発に携わりました。現場のアニメーターとして、自分で作っていて印象に残ってるのが、『ソウルキャリバー』シリーズに登場するアイヴィーと、『鉄拳』シリーズに登場するリリですね。

CGW:メインのツールがSoftimage 3Dだった時代ですね。

小澤:そうですそうです。ただ、そこでアニメーターとしてのキャリアは終了で、2007年に販売側のプロデューサーになりました。そこで手がけたのが『ソウルキャリバーⅣ』(2008)になります。

CGW:クリエイターからプロデューサーにキャリアアップされたわけですね。一般的に、キャリア構築には現場のクリエイターとしてスキルを極める方向性と、管理職として現場を束ねる方向性の2つがあるかと思いますが、小澤さんが後者を選ばれたのはなぜですか?

小澤:「チームの中核ポジションになれば、現場のクリエイターを幸せにできる」と考えたからです。ちょうど『鉄拳5』をつくっていた頃、アニメーションチームのリーダーをしながら、新人アニメーターの教育係もやっていました。その後『鉄拳5』の開発が終了して、自分自身は『鉄拳5 DARK RESURRECTION』(2005)の開発を手がけていたものの、大半のメンバーはいろんなプロジェクトに散り散りになりました。そんな頃、それまで自分が育てていた若手が突然、泣き崩れるように「小澤さん、僕会社を辞めます」と言ってきたことがあるんです。

CGW:ええっ、それはショックですね......。

小澤:すでに私よりも実力があるクリエイターでした。私からすると、あんなに苦労して、時には喧嘩をしつつ、一生懸命アニメーションを教えたのに、残念でした。理由を聞いたところ、「今のチームではアニメーターの地位が低い」、「自分のつくったアニメーションを大切にしてくれない」などと話してくれたんです。

CGW:それは困りますね。

小澤:私も若かったので、それを聞いて怒ってしまって。なんでそんなことをするんだって、そのプロジェクトの偉い人に抗議しました。ただ、別のプロジェクトの話でもあり、そのままになってしまって、その子も退職してしまったんですよね。それが本当に悲しくて。クリエイターひとりひとりのモチベーションを維持したまま、プロジェクトを運営することが絶対にできるはずだと思ったんですよ。そもそも、スタッフがいやいや働いているよりも、活き活きと働いている方が、クオリティも上がるはずじゃないですか。

CGW:当時はPlayStation 2世代の後半で、大規模開発の闇が業界を侵食しはじめた頃でしたね。徹夜と気合いで物量の壁に挑もうとしていた時期でした。

小澤:そうそう。そんなとき、アニメーションのリーダーが幸せにできるのは、せいぜい10人前後のチームメンバーだけなんですよ。これがプロデューサーになれば、少なくともプロジェクト全員を幸せにできるはずだと思いました。そんな頃、たまたまプロデューサーが集まる部署の社内募集があり、手を挙げました。

CGW:販売プロデューサーというのは耳慣れない職種ですが、どういった職務ですか?

小澤:ゲームを売ったり、宣伝したり、スケジュールを管理したりする仕事ですね。これと対になる仕事として、制作プロデューサーがいます。

当時、自分が所属するバンダイナムコゲームスでは、自社で開発業務とパブリッシング業務を兼務していました。そのため制作と販売の両プロデューサーがいて、二人三脚でプロジェクトを見ていました。会社によっては、2つの職種が1つになっていたり、制作と販売を束ねる統合プロデューサーがいたり、会社やプロジェクトの規模によって異なるかもしれません。

ちなみに、現在はバンダイナムコスタジオに在籍しており、開発業務に特化しているので、弊社にいるのは制作プロデューサーだけです。バンダイナムコエンターテインメントの販売プロデューサーと二人三脚でプロジェクトを進める場合が多いです。

CGW:なるほど。その中でも販売プロデューサーと言えば、開発の終盤にさしかかり具体的な宣伝計画を立てる段階になると、急に忙しくなる印象があります。

小澤:イメージとしては近いと思います。販売プロデューサーが忙しいのは、プロジェクトを起ち上げるときと販売するときです。本当に最初と最後はてんてこまいですね。

CGW:それまで現場でDCCツールを片手に開発をしていたのに、突然「Excelが友だち」みたいな世界になったわけですよね。

小澤:まさに「作る側」から「売る側」の世界に入ったばかりで、全てが新鮮でした。予算の使い方とか、契約や権利的な面ですね。そういう裏方的な情報をインプットして、チームを動かしていくのが、自分の得意なリーダーシップのあり方だったんだなと、その時に発見しました。



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プロデューサーの仕事は現場を甘やかすこと

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小澤至論/Michihiro Ozawa

小澤至論/Michihiro Ozawa

バンダイナムコスタジオ

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