>   >  日本にフルCGアニメは根付くのか?:第 4 回:勝間田具治(アニメーション監督・演出家)
第 4 回:勝間田具治(アニメーション監督・演出家)

第 4 回:勝間田具治(アニメーション監督・演出家)

実写の演出技法をアニメに活かす

野口:当時の制作サイクルはどのような感じだったのですか?

勝間田:絵コンテは、A・Bパートで1週間ずつ、つまり2週間で1本のペースだった。今と比べるとかなりタイトだったわけだけど原画マンの数が多いから待たせられなかったんだ。

野口:現在では絵コンテに1〜2ヶ月、実制作に3〜4ヶ月は費やすのが一般的ですよね。つまり1話作るのに約半年はかかります。

勝間田:その代わり、原画マンは5人くらいだ。1960〜70年代は1話あたり原画マンが20人はいたから、全体の動きを合わせるのが大変だったよ。

野口:人数を多くして1週間で原画を終わらせてしまうわけですね。

勝間田:原画だけじゃない。当時のTVシリーズ制作では総スタッフ数は100名規模で、アニメーションの本制作は1話1週間のペースで完成させていたよ。

野口:なんと!

勝間田:1シリーズで演出が6人いたから回せたのだろうね。ただし、今みたいに 線撮り※コンテや原画など仕上げ前の線画の状態で行う撮影。これをアフレコ等に用いる)はやってなかったな。

野口:これにより約1ヶ月で1話30分のアニメーションを完成させていたわけですね。まさに量産体制です。

勝間田:さらに付け加えるとバンクの存在も大きかった。1年かけて制作を続けていく過程でどうしても間に合わない回が出てくる。そんなときは、バンクで1話仕上げるということもやっていた。『狼少年ケン』だと背景は草原だから、キャラクターのセルさえあれば何とかなったんだよ。バンクだけで150カット仕上げるとか当たり前にあった。

野口:それは凄い!

勝間田:実写の場合は、情報が多い分だけカットの繋がりには細かい配慮が必要になる。だけど、当時のアニメでは平気ですっ飛ばしてやっていたよ(笑)。そんなわけで絵コンテが上がってくると、まずは徹夜でバンク探しをやるんだ。バンクは整理されていて、『狼少年ケン』ならケンのアップ、ロング、バストという具合にね。バンクだけで賄おうとすると、サイズは合っていてもどうしても芝居は違ってしまう、でも気にしないでやっていたな。

野口:そうした努力もされていたわけですね。

勝間田:当時、実写映画出身の演出家の中で、オールバンクで2話くらい作らされた可哀想な人もいたよ(苦笑)。だけど、こうした回のおかげで全体のスケジュールはかなり助けられるからね。制作当初から穴が空きそうな回はバンクを前提に脚本を書いたこともあったよ。

野口:なんだか総集編の回みたいですね。

勝間田:演出家としては普通はやりたがらないけどね(苦笑)。だけど、それでもなんとか持ったんだよな。

野口:この流れでお聞きしたいのですが、脚本の扱いはどのような感じだったのですか?

勝間田:コンテを描く段階から割とアレンジしていたよ。あれは、『グレートマジンガー』(1974〜1975) 制作時だったな。上がってきたシナリオにどうもマンネリ感があったものだから、A パート(30分番組の前半)ではグレートマジンガーが絶対に立ち上がれないように演出を変えてしまったんだ。おかげで B パート(同後半)の演出にまるまる1ヶ月悩んだけどね、寝たままではどうやっても敵が倒せないから。悩み抜いて何とかストーリーとして破綻させずに演出してみたら、当時の社長だった 今田智憲(ちあき) さんに、「昨日のお前の回、良かった」って褒めてもらえたのが嬉しかったなあ。

野口:え? 脚本はあったけど、使わなかったということですか!?

勝間田:その通り。

野口:最近ではとても考えられませんよね。ですが、実際にアニメーションを演出する段階になってシナリオでは見えてこなかったことが往々にして出てくることを考えると、脚本に束縛されてしまうのは却って効果的な演出の妨げになってしまう。

勝間田:そうなんだよ。好き放題やればいいってわけではないが、そうした即興的な演出が誰も観たことがない斬新な表現を生み出すというのは確かにあるからね。

勝間田氏ポートレイト5

 

野口:勝間田さんはアクションものの演出が多いですよね、我々の世代では男なら 『マジンガーZ』 は必ず見ていました。

勝間田:当時の東映動画では、演出スタッフは何となく女児向け作品とアクション(男児向け)もの担当とに分かれて活動していたんだよ。そして、僕ら京都出身組はみんなアクション班に入れられた。僕自身としては女の子向けも得意だと思ってたんだけど、たまに1本か2本担当する機会があってもまたアクション班に戻されてしまったな(笑)。

野口:確かに 『魔法使いサリー(第1期)』(1966) などの演出も手掛けていますね。

勝間田:あのときは、ちょうどアクションものの制作が終わったばかりで、「勝間田を遊ばせておいてはいかん」ってね。そんな感じで 『ひみつのアッコちゃん(第1作)』(1969) も担当したよ。僕みたいにアクション中心で時々少女ものを担当する演出家は他にもいたけど、その逆のパターンはなかったな。実写もそうだけど、アクション演出は慣れていないと難しいからね。

野口:なるほど。

勝間田:そして、僕ら京都組が実際に演出をしながらアニメーション制作のノウハウを学ぶ一方では、アニメーターたちが実写演出について学んでいくという流れもあったよ。そうして相互理解が深まっていく中で、新しい技法や表現に挑戦していったんだ。『マジンガーZ』の時は、同じ立ち回りでも夜と昼で変えようとか、戦闘シーンの中でドラマを描こうとか。

野口:その頃に、"三角演出" という技法を考案されたとお聞きしたのですが?

勝間田『タイガーマスク』(1969〜1971) なんかでは割と多用していたな。三角演出というのは、例えばシーン頭はタイガーマスクのアップ、そして次は俯瞰のロングでタイガーと相手レスラーが向き合っている状況を見せる。その後はバストショットを中心に芝居を描いていくという感じで、キャメラの動きが「アップ→ロング→バスト」と三角形の型に近い流れで演出するというもの。三角演出が定着する以前は、ロングから入ってミドル、それからアップみたいにカメラを段々と寄せていくみたいなセオリーがあって、そればかりやってる奴もいた。だけど、これだと分かりやすいけどインパクトがない。だから、いきなりアップでパーンとやってから、少し引いて芝居で動かすみたいな演出を思いついたわけだ。特に実写ならではということでもないけれど、マキノさんにも田坂さんにも影響を受けていない自分流の演出として根付いたんだよな。

野口『マジンガーZ対デビルマン』(1973) では、ラストに登場する富士山を360°周り込むという実写のようなカメラワークが印象的でした。この演出は、現在3DCGが持つ利点のひとつとされている大胆かつ自由なカメラワークに当てはまります。それを手描きで演出されたわけですから、よくやりましたね。

勝間田:バックは山梨だろ、それをグルっと沼津から廻ってね。実は『狼少年ケン』で同様の演出を既にやってはいたのだけど、普通に作画するとカメラワークとしては速すぎるんだよ。3コマ打ちの場合は、スローモーションの感覚で描いてもらって初めて普通の(リアルタイムの)動きに見える。

野口:そうしたノウハウはぜひ3DCGアニメーションにも採り入れていきたいものです。ところで、『UFOロボ・グレンダイザー』(1975〜1977) では、勝間田さんはチーフディレクターという肩書きになっていますが、この頃に誕生したポジションだったのですか?

勝間田:その前からあったと思うよ。昔のTVシリーズでは、総監督というポジションがなかったので6班体制で回していくと、各班でスタイルがバラバラになってしまった。

野口:そこで、TVシリーズ全体でクオリティのバラツキを生じさせないようにとチーフディレクターが誕生したわけですね。

勝間田:その通り。その後、東映ではシリーズディレクターと呼ぶようになったけどね。

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