>   >  新・海外で働く日本人アーティスト:カメラを抱えて海外へ、人との縁に導かれCGアニメーターに 第29回:佐藤 成/Sei Sato(Logan / Senior Animator)
カメラを抱えて海外へ、人との縁に導かれCGアニメーターに 第29回:佐藤 成/Sei Sato(Logan / Senior Animator)

カメラを抱えて海外へ、人との縁に導かれCGアニメーターに 第29回:佐藤 成/Sei Sato(Logan / Senior Animator)

ハリウッドのVFX業界におけるキャリア構築には、人と人とのネットワークがとても大切である。コネクションによって仕事に巡り会うことも少なくない。今回、紹介する佐藤 成氏も、友人から声を掛けられたことが縁となり、現在のポジションがあるという。そんな佐藤氏のキャリアについて、お話を伺っていこう。

TEXT_鍋 潤太郎 / Jyuntaro Nabe
ハリウッドを拠点とするVFX専門の映像ジャーナリスト。
著書に『海外で働く日本人クリエイター』(ボーンデジタル刊)、『ハリウッドVFX業界就職の手引き』などがある。
公式ブログ「鍋潤太郎☆映像トピックス」


EDIT_山田桃子 / Momoko Yamada

Artist's Profile

佐藤 成/Sei Sato(Logan / Senior Animator)
宮城県出身。2002年にデジタルハリウッド・サンタモニカ校(DHIMA)※1 Filmコースを卒業後、ロサンゼルスのLoganにCGアニメーターとして入社。2018年の3月までスタッフとして在籍し、その後はフリーランスに転身するも、そのままLoganで仕事を継続。主に有名企業のブランディングや製品のCM、ゲームのトレイラーやムービー、映画のタイトルやエンディングの制作を手がける。

※1デジタルハリウッド・サンタモニカ校 DHIMA(DH Institute of Media Arts):1997年に設立されたデジタルハリウッドのUSA校。後に閉校となったが、多くの卒業生をILM、Digital Domain、Rhythm&Huesなどハリウッドの現場に輩出した実績を残している

<1>鞄ひとつで日本を飛び出し、ロンドン、イタリア、L.A.へ

――日本では、どのような学生時代を過ごしていたのでしょうか。 

とにかく写真を撮ることが好きで、常にカメラをもち歩いていました。当時、デジカメはまだ新しい技術だったためそれほど画質が良くなく、フィルムでばかり撮影していました。また、毎日のように一緒にいた親友のお父さんが、とてもかっこいい写真を撮る写真家だったので、強く影響を受けましたね。写真を続けるうちに24枚撮りフィルムの中に1枚、2枚と自分でも気に入った作品を撮れるようになってきて、それが楽しくて、写真は今でも続けている趣味の1つになっています。その当時、親友のお父さんから譲り受けたRICOHの初期GR1は、今でも大切な宝物です。

――日本でも就職されていたそうですが、どのようなお仕事をされていたのでしょうか。 

工務店に勤務し、現場監督として4年弱働きました。振り返ってみると、1つの建物を完成させるために技術をもった職人さん達が集まって仕上げていく工程は、現在、働いているCGの制作現場とよく似ていると思います。それぞれの工程で職人さんが技術と力をあわせて1つの作品を仕上げていくという点、そして完成したときの達成感など、共通する点が多いです。

――その後、海外留学されたのですね。

建築もやりがいのある仕事だったのですが「映像の仕事がしたい」という思いがずっと心にあって、東京のデジタルハリウッドに通って1から勉強しようと考えました。ところが、たまたまロンドンに語学留学している知り合いと話すと、地元の仙台を離れ東京で1人暮らしをするコストと、ロンドンに住むコストがそれほど変わらないことを知りました。僕は社会人だったので、スタートがすでに他の学生さんよりも遅かったということもあり、ならば東京ではなくロンドンに行って世界を見てこようと決め、観光ビザですぐにロンドンへと旅立ちました。

ロンドンには歴史的な建造物が多く、街全体がまるで博物館のようでした。好きな音楽をヘッドフォンで聴きながら歩き、写真を撮りまくりました。語学学校はすぐに見つかりましたが、一度イギリスを出国して学生ビザに切り替えなければいけなかったので、今度はブランド品買い付けのバイトを見つけ、イタリアへ飛ぶことにしました。今振り返ると、よくもこんな思い切った行動ができたものだと思います。具体的なエピソードは省略しますが、行き当たりばったりの道中には、たくさんの危険や冒険が待っていましたよ(笑)。

結局、ロンドンでは短期でCGを勉強できるような場所が見つからず、1年間語学学校に通いました。そんな中、「デジタルハリウッドの姉妹校であるDHIMAがロサンゼルスにあり、そこで1年間CGの勉強ができる」という話を聞き、今度はロンドンからロサンゼルスに行くことにしました。ここまで来ると、もう海外どこへ行くのにもあまり抵抗がなくなってきていて、他の国に行くことが楽しみで胸が躍りました。

DHIMAでは「Filmコース」を受講し、Mayaを1年間猛勉強しました。ロサンゼルスはロンドンと比べると、せいぜい100年程の歴史しかなく、ヨーロッパのような歴史建造物もなく、さらに広大過ぎて車がないと何処にも行けませんでした。なのでロンドンにいた頃、街を出歩いていた生活とは真逆に、ロサンゼルスでは学校のコンピュータルームにこもって朝から深夜まで、毎日黙々と勉強していました。

――海外での就職活動は、いかがでしたか?

DHIMAを卒業したと言っても1年間勉強しただけなので、すぐに会社の即戦力として働くわけにはいきません。たくさんの会社にデモリールを送ってメールでやりとりするという、地道な就職活動を続けていました。そうこうしているうちに、DHIMAのクラスメートだった友人が働いていた会社に、「勉強」と称して出入りするようになり、そこで当時、知名度が高かったRicky Martinのミュージックビデオ(以下、MV)のプロジェクトを手伝うことになりました。

もともとMVをつくりたいと夢見て映像の勉強を始めたので、その夢が叶ってとても興奮したのを覚えています。その後もプロジェクトは切れずに続き、Chemical BrothersやBritney Spearsといった大物のMVに携わることができましたが、その会社では就労ビザのスポンサーになってくれるという返事はもらえませんでした。ただ、卒業制作と小さなプロジェクトしか入っていなかった僕のデモリールは、その会社のおかげで、とても華やかなものになりました。

そのデモリールを手に、僕はビザのスポンサーになってくれる会社を探しました。このときもまた元クラスメートに声をかけてもらい、Loganの面接を受けることになりました。緊張した面接の後、たくさんの不安と少しの期待を胸にアパートに帰りました。すると夕方の4時頃、面接をしてくれたプロデューサーから電話がかかってきて、Loganにビザをサポートしてもらえることになり、現在に到るまで14年もの間、お世話になっています。

Loganでの仕事が始まってしばらくすると、突然、AppleのCMプロジェクトの話が舞い込んで来ました。会社との契約上、プロジェクトの詳細はお話できないのですが、興奮した僕は毎日夜遅くまで頑張って仕事をしました。いろいろありながらも、順調に上層部チェックまで進んでいったんですが、残念なことに、その過程でどうも「ちがうコンセプトで行こう」という決定がなされたらしく、突然そのプロジェクト自体がなくなってしまったのです。このときは本当にガッカリしたのを覚えています。

それから2週間ほど経ったころ、信じられないことが起こりました。なにかの機会にあのスティーブ・ジョブス氏が僕らの作品を観て気に入ったというのです。当時は、すでに神様のような存在だった彼が「これで行こう」と言ったのですから、そこからは話があっという間に進んでいきました。プロジェクトが完成すると、世界中で半年からそれ以上の長い期間、僕達の作品がTVで放映され、街中のビルボードにポスターが張りめぐらされました。仲間と一緒にハリウッドで一番大きなビルボードを見に行ったときに感じたあの感動は、今でも忘れることができません。


Loganの同僚のみなさんと

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<2>まず行動し、試行錯誤をくりかえしながら問題を乗り越えていく

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