今回は、ロサンゼルスで映像ディレクターとして活躍中の方に登場いただいた。アメリカの大学を卒業後に日本へ帰国し就職後キャリアを磨き、再度アメリカの大学院へ留学されたという柴田氏に、ディレクターとしての仕事ぶりや就労ビザ取得の苦労について、話を伺った。
Artist's Profile
柴田夏未 / Natsumi Shibat(Director)
東京都出身。南イリノイ大学映画学科を卒業後、日本に帰国し、民放キー局の報道番組のディレクターとしてキャリアをスタートする。その後、転職し、TVCM制作会社にてプロダクションマネージャーとして勤務。2017年、大学院留学のため再渡米し、ニューヨークフィルムアカデミー/ロサンゼルス校で修士号を取得。現在はアメリカ・LA在住の映像ディレクターとして主に日本のドキュメンタリー番組を制作。英語を駆使し自ら取材できるのが強み。日本のテレビ番組のコーディネーターとしても活動している
YouTubeチャンネル:テレビサンタモニカ
ディレクターとして、日本の実績でO-1ビザを取得
――子供の頃や、学生時代の話をお聞かせください。
子供の頃、母は私に、アニメではなくアメリカ映画を観せていました。その影響で、幼い頃から海外に興味をもち、外国にいる同じくらいの年齢の子供と文通もしていました。高校生のときは、アメリカの地方都市に2週間のホームステイ。映画で観ていたアメリカの街並みをはじめて目の当たりにして、とても感動したのをよく覚えています。
一方で、英語は中学、高校ともに苦手で、成績も非常に悪かったです。にもかかわらず、アメリカの大学に留学をして映画を学びたいと思っていたのですが、どうやって留学するのかがわからず、流れのままに日本の大学に進学しました。
大学3年で就職活動の時期に入り、このまま就職したらアメリカの大学に行きたい希望は一生叶わない、と思い、留学サポートエージェントを頼って留学を決意。両親を説得するため、エージェント費用はアルバイトで貯めたお金で全額自己負担しました。結果、日本の大学を3年でまさかの中退、アメリカの大学へ編入することになりました。
イリノイ州の州立大学の映画学科に留学しました。デジタルだけではなく、フィルムでの撮影や現像も学びました。個人的に、映画史とエクスペリメンタルフィルム(実験映画)の授業が楽しかったです。そしてなんと、映画学科の同じ学年に留学生は私1人でした。このことが、小心者だった私の意識改革の始まりになりました。
とても田舎にある大学だったので、撮影用のロケ地が変わり映えしないのが難点でした。しかし、アメリカの田舎生活を経験したことは、今現在、ノンフィクション系ディレクターとして働く私にとって、アメリカ取材における視野の広さにつながっていると思います。
――日本で仕事をされていた頃の話をお聞かせください。
アメリカの大学を卒業後、OPT※を取得せずに帰国して、新卒で映像制作会社に入社しました。その後、民法キー局の夜の報道番組へと派遣されました。生放送のデイリー番組ということもあり、日々時間との戦いでした。AD時代はたくさん失敗しましたが、上司や同僚に恵まれた環境だったので、取材の基礎や原稿の基礎など、ノンフィクション制作に大事なことをがっつり学びました。
※OPT(オプショナル・プラクティカル・トレーニング):アメリカの大学を卒業すると、自分が専攻した分野と同じ業種の企業において、実務研修を積むため1年間合法的に就労できるオプショナル・プラクティカル・トレーニングという制度がある。専攻分野によっては1年以上の就労が認められるケースもあるので、留学先の学校に確認してみると良い
次に働いたCM制作会社制作部での仕事は、報道で学んだこととは正反対でしたが、企画から納品まで、一連の映像制作フローを学べたのは、非常に大きかったです。特にCMの制作部は、ドラマや映画における助監督のような役割もするので本当に大変でしたが、今では色々と役に立っています。
その後、大学院で学ぶべく30代で再びアメリカに留学したのですが、留学先のニューヨークフィルムアカデミー/ロサンゼルス校の大学院は、まるで専門学校のような学校でした。学科名がMasters of Arts in Film and Media Productionと長いのですが、映画の中心地LAにあって、映画制作ができて、なおかつ1年で修士号を取れるところがお財布に優しいという点で選びました。クラスメイトの9割が留学生。みんな気が強くて、授業中にケンカ勃発が日常茶飯事でした。ここでできたウクライナ人とサウジアラビア人のクラスメイトとは今も良い友人関係にあります。
――アメリカでの就労ビザ取得は大変だったそうですが。
大学院を卒業後、ここで初めてOPTを取得。その後、前職の報道ディレクターの経験を活かして、ジャーナリストビザを取得しました。日本のテレビでオンエアされる作品の制作に携わっていましたが、アメリカの映像作品でどうにか働けないかと考えはじめていたとき、ひょんなことから日本語が堪能でアメリカドラマの現場で働いている日系アメリカ人のAD(助監督)さんと知り合いました。その方に、アメリカの映像作品撮影現場に行きたいなら、O-1ビザが必要だ、と教えてもらいました。その言葉を受けてO-1ビザ取得を決めました。
ですが、ずっと前から、様々な人にディレクターとしてO-1ビザを取得するのは「非常に厳しい」という話を聞いていました。カンヌ映画祭など3大映画祭で賞を取ったレベルのディレクターでないとO-1ビザの取得はできない、と。私にそんなクレジットはありませんでした。実際に、O-1ビザに挑戦をしても認可が下りず、やむなく帰国したディレクターの友人が何人もいました。
そんな中、全取材を担当しディレクターとして制作に関わったTVのドキュメンタリー作品が、日本テレビ界の権威ある賞(ギャラクシー奨励賞)を受賞したんです。
「“アジアンヘイトクライム”と戦う ――分断深まる アメリカ――」
東北新社、日本放送協会
www.web.nhk/tv/an/bssp/pl/series-tep-6NMMPMNK5K/ep/K71RK4J7VK
この受賞のおかげでチャンスがあるのではないかと思い、日本人のO-1ビザ取得を多数成功されている弁護士事務所さんに無料相談をお願いしました。そうすると、「あなたのO-1ビザ取得は可能だと思う」と言われ、O-1ビザ取得に挑戦することにしました。
O-1ビザは個人では申請できないので、就労ビザをサポートしてくれる在米企業が必要になります。その企業に就職する形で所属するか、もしくはその企業をエージェントにしてフリーランスとして活動するという2つの選択肢があります。私の場合はフリーランスなので、エージェントとしての就労ビザ・スポンサー企業を探しました。その結果、何度か一緒にお仕事させていただいたことのある在米の日系プロダクションにお願いしました。
ビザ申請用の書類づくりは、多くの人に協力をしていただく必要があり、それはこれまでの人間関係がモノを言いました。快く協力してくださった方々に感謝です。
申請は無事アプルーブされて、次の段階はアメリカ大使館での面接でしたが、私は、Iビザを取得していたこともあり、当時のルールで大使館の面接は免除されました。郵送での申請ということになり、パスポートと書類一式を東京の大使館におくり、再び、大使館からの連絡を待つことになりました。1週間後、許可の連絡をもらい、パスポートを大使館指定の場所に取りに行きました。
パスポートにO-1ビザが貼ってあったのを確認した瞬間は、非常に感慨深いものでした。無名のディレクターの私でもO-1ビザが取れるんだ、と。特に私の場合、日本での映像制作キャリアがモノを言ったと思っているので、日本でのキャリアがビザ取得に繋がることを声高に訴えたいです。
現在はフリーランスのディレクターとして仕事しています。基本的に日本の仕事がほとんどで、LAにある日系のプロダクションさんや日本の番組、プロダクションさんから直接、お仕事をいただいています。
「LAだけでアメリカを語ってはいけない」、アメリカ在住のディレクターだからこそ伝えられること
――最近、参加された作品で印象に残るエピソードはありますか?
昨年、ウクライナ人の友人(LA在中)と、彼女の両親(ウクライナ在中)を主人公に、“ロシアによるウクライナ侵攻とアメリカ大統領選挙”をテーマにしたドキュメンタリーを制作しました。同時に、別件で、大統領選挙の取材も行なっていました。
それぞれの取材を通して、ウクライナからの視点・アメリカからの視点、を知ることで、私はジャッジできる立場にはないけれども、アメリカに住んでいる私だからこそ、ディレクターとして、多角的な視野で事象を読み取れる、深堀りできる面も多々あるのではないか? と思いました。日本の価値観に沿った思考で、アメリカを読み取ろうとすると、視点がズレることがあるんじゃなかろうかと思います。
こぼれ話でいえば、私が住んでいるLAは非常にリベラル思考なエリアです。ここから非常に保守的なエリアに行くと、全くちがった景色が見えます。なので、ディレクターとして、LAのみでアメリカを語ってはいけない、と肝に銘じています。
――現在のポジションの面白いところは何でしょうか。
ありがたいことに、仕事でアメリカ全土を飛び回れることです。アラスカの秘境の山から、バハマ(アメリカではないですが)のエメラルド色の海、米軍管轄の一般人が入れない島まで、様々な場所に行きました。
そして、現地の方々と、その地にまつわる話をするのが面白いです。
――英語や英会話のスキル習得はどのようにされましたか?
日本人ではない友人をつくり、とにかく英語を話すことが大切だと思います。文法を間違ってもいいので、とにかく話す。英語を話す環境に自分を強制的に置くことです。
ポイントとしては、焦らずゆっくり話すこと。聞くときは、全てを聞き取ろうとせず、聞こえた単語で相手が言わんとしてることを推測することで、十分会話は成立します。YouTubeにあるTEDの動画を使って、シャドーウイングをするのも、おすすめです。
――将来、海外で働きたい人へのアドバイスをお願いします。
私は、“海外で働く”というのは“その国とご縁があるから”だと考えています。縁があれば働けるし、縁がなければ働けない。縁がないときに「海外に行くため・いるため」に無理に動いても、意味がないので「今じゃない」と思うことも大切かなと思っています。
海外に出るチャンスは、やり方次第、自分次第、年齢関係なくいくらでもあります。今まで、アメリカで働きたいけどビザがないと悩んでいる人をたくさん目にしてきましたが、不思議なことに、執着がなくなったときほど、海外で働けるチャンスが舞い降りてくるものです。精神論になりますが、これは大切なことだと思います。
【ビザ取得のキーワード】
①米大学映画学科を卒業後、日本の報道番組でディレクター、CM制作会社のPMとして働く
②LAの大学院へ留学し修士号(MA)を取得
③報道番組勤務の経歴を生かして、ジャーナリストビザ(Iビザ)を取得
④TV作品をつくり続けアーティストビザ(O-1ビザ)を取得
連載「新・海外で働く日本人アーティスト」では、海外で活躍中のクリエイター、エンジニアの方々の海外就職体験談を募集中です。
ご自身のキャリア、学生時代、そして現在のお仕事を確立されるまでの就職体験について。お話をしてみたい方は、CGWORLD編集部までご連絡ください。たくさんのご応募をお待ちしてます!(CGWORLD編集部)
TEXT_鍋 潤太郎 / Juntaro Nabe
ハリウッドを拠点とするVFX専門の映像ジャーナリスト。著書に『海外で働く日本人クリエイター』(ボーンデジタル刊)、『ハリウッドVFX業界就職の手引き』などがある。
公式ブログ「鍋潤太郎☆映像トピックス」
EDIT_山田桃子 / Momoko Yamada