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    CGWjp201607-VirtualExperiencesInReality03-BjorkDigital.pdf


    近年、多様な展開を見せるヴァーチャル(バーチャル)・リアリティ(VR)について、様々な視点からアプローチする本連載。今回は、2016年6月29日(水)から7月18日(月・祝)までの18日間、日本科学未来館にて開催中である『Björk Digital ―音楽のVR・18日間の 実験』を紹介しよう。展示タイトルのとおり、ビョークの楽曲と世界中の映像クリエイターやプログラマーとのコラボレーションによって実現した音楽体験を拡張する実験的なVRの展示プロジェクトだ。

    <1>30年以上にわたり、新たな音楽表現を探求し続ける

    故郷アイスランドの自然―木々がなく、冬の極夜と夏の白夜は、ビョークの最も重要なインスピレーションの源泉だ。ビョークは30年以上にわたり、音楽制作を続けて、その売り上げは2,000万枚におよぶ。2015年には、女性のポップアーティストとしては初となる回顧展をニューヨーク近代美術館(MOMA)で開催した。ここにいたるまで、ビョークは常に音楽業界のしきたりを押し動かす一方で、革命的なミュージックビデオとファッションを生み出し続けてきた。ビョークの仕事、あるいはビョークその人を定義づけるいかなるジャンルも存在しない。彼女は自身を次のように表現する。「最も特異な人間のひとりであり、同時に、非常にパーソナルなシンガーソングライターでもあり、(中略)また科学者あるいは冒険家である」と。

    2016年6月29日(水)、そんなビョークの展覧会『Björk Digital-音楽のVR・18日間の実験』(以下、"Björk Digital")が日本科学未来館にて開幕中だ。ビョークのこれまでになくパーソナルな感情から生まれた2015年に発売されたアルバム『Vulnicura』は、彼女にとっては毎回のことだが、音楽界で驚きをもってむかえられた。いまだかつて、ビョークがこれほどまでに何らフィルタを差し挟まずに、自身の心と魂を人々に開け広げにした作品はないだろう。

    Making of "Björk Digital - live streaming digest part1 - "

    しかしながら、自身を最もさらけ出したアルバムであるにもかかわらず、歌詞と音楽だけでは、このアルバムを完全なる親密さの瞬間とするには十分ではなかったようだ。オーディエンスが何よりもビョークとたった2人きりになることを可能にするために、彼女はヴァーチャルリアリティ(VR)、モバイル・テクノロジー、そして最先端のシネマサウンドシステムを駆使したこの展覧会を企画したのだ。私たちは常にビョークの新しいアルバム、衣装、仮面を通して、新しい彼女を発見してきたが、今回は全てにおいてこれまでとは異なっている。今回、彼女が自身の作品を表現する際に好んで使うおとぎ話のような幻想はいっさいなく、ただシンプルに彼女自身のストーリーが繰り広げられているのだ。

    連載"Virtual Experiences in Reality"第3回:Björk Digital

    © Santiago Felipe

    <2>"I wish to synchronize our feelings"

    何十年もの間、人々の関心からビョークを守ってきた故郷アイスランドに向けられる彼女の親愛の情は、まず初めにYouTubeを利用して、アルバム『Vulnicura』から作品"Stonemilker"の360度ビデオをアップロードする方法で表現された。
    Samsung Gear VRのHMD(Head-mounted Display)とBowers and Wilkinsのヘッドホンを装着するやいなや、私はアイスランドの海辺にいた。そして、きらめく黄緑のドレスを着たビョークが歌っているのを立って見ている。閑散とした灰色がかった北国の海岸と、ビョークのドレス、彼女の動きが、驚くほどのコントラストをなす。周囲を見るために振り返るたび、音色は海辺にいるビョークとともに、動き、とどまる。何度か見まわしているうちに、完全に没入し、彼女の世界の中にいる。荒涼としたアイスランドの風景の中で、この映像がいかにして制作されたかを考える時、この親密な瞬間に気づく。海辺には山や撮影クルーが身を隠す場所はいっさいない。ビョークがたったひとりで360度カメラを携えて、その場にいたように感じられる。

    連載"Virtual Experiences in Reality"第3回:Björk Digital

    © Andrew Thomas Huang

    この瞬間、私はこの展覧会の真の意味を理解すると同時に、初めてVRが外界との接触を失わせる経験をした。私は私の周りを踊り、歩き回るビョークとともに、たった2人きりで海辺にいる。哀しみを帯びた歌詞、決して絵はがきになりようもない海辺の風景、ビョークの動きとドレスの色彩、それら全てによって、私は孤独でありながら、希望さえ感じるられるのだ。

    Björk: stonemilker (360 degree virtual reality)

    <3>"I was not heard"

    次の部屋に進むと、VR体験が新たなレベルの親密さに到達していた。先ほどとは別のGear VRのHMDとヘッドホンを調整して、しばらくして新たな空間に慣れてくると、もはやビョークを対象として見ているのではないことがわかる。ピンクの塊、暗闇、そして液体。ほとんどシュールでグロテスクのように見えるが、歌詞が流れ、気づくとビョークの口の中にいる。口は人間の身体の中で、最も傷つきやすく、また親密な部分でもある。このVR空間は、特別にカスタムされた球状の360度カメラで、実際のビョークの口の内部と、このために作られた精巧なビョークの口のモデルを撮影することによって生み出された。

    連載"Virtual Experiences in Reality"第3回:Björk Digital

    © Jesse Kanda

    連載"Virtual Experiences in Reality"第3回:Björk Digital

    © Jesse Kanda

    "Mouth Mantra"のマッフルベースドラムの音は、ビョークの鼓動のように感じられ、離れているにもかかわらず、同じ宇宙にいるかのようだ。空間の中の宇宙と身体の中の宇宙が、ビョークのためのつながれた世界となる。映像の最後で、私たちは洞窟から解放される。次に外界へと移動し、何ら背景を持たない青い冷たい照明の中で、ビョークの顔と踊る彼女の姿を見る。そこは、真っ黒い空虚な世界で、ビョークしか見えない。感情的につき動かされるときに、どのようにして声帯を閉じるのか、どのようにして言葉が内面につきささるのか、そう語りかける歌詞を聴いているうちに、この実験へのビョークと監督Jess Kandaの愛だけが、完全なVR体験を可能にしているのだと理解するのだ。
    ビョークの故郷アイスランドの海辺で、彼女と2人きりで過ごした後、ビョークは彼女の身体の内部へと私たちを導き入れてくれたのだ。しかし、この経験が最後のそして最も親密な彼女とのつながりだと思ったらまちがいだ。

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    <4>"Your spirit entered me"

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    <4>"Your spirit entered me"

    Warren du PreesとNick Thornton Jonesの共同監督による"Not Get VR"は、親密さの度合いの進化において、最も高いレベルに達している。展覧会の3つ目の部屋では、鑑賞者は2人ずつブースの中に立つ。この"Not Get VR"でビョークはIntelさらにREWINDとコラボレーションした。つまり、HTC Vive VR体験を生み出すために、描画されたビョークの姿は、光の存在へと進化したのだ。HMDに接続されたコンピューターの強力なグラフィックス処理によって、より高いリフレッシュレートでの素晴らしいVR体験を可能にした。完全に没入感があり、息を飲むようなビョークのデジタルフォームを開発するために、モーションキャプチャ、高解像度3Dスキャン、ビデオグラメトリ技術が使用されている。残念ながら、まだ描画されたビョークとインタラクティブに関わる方法はない。プロデューサーのPaul Clay氏によると、彼は現行の"Not Get VR"は完成しているととらえているが、ビョークは未完成であると考えているそうだ。

    連載"Virtual Experiences in Reality"第3回:Björk Digital

    © REWIND VR

    アルバムのブックレットでは"11months after"というサブタイトルをもつ"Not Get"は、ビョークの傷がどのように癒え、彼女が失った愛する人の魂がどのように彼女の中に入ってくるかを表現する。私はビョークのパーソナルなパフォーマンスを目撃する。彼女は自身の姿を絶え間なく進化させ、変化を続ける。彼女はほとんど私たちの内部で踊り続け、私たちは何が起きているのかを完全に把握するのは難しい。一見するとビョークと2人きりでいるようだ。様々な色の光の粒子が輝き、赤―黄―橙の周囲の空間を神経質に放射する。全ての痛みと傷を経て、色彩は暖かさを感じさせ、希望を与え、楽観的な雰囲気を生み出す。
    今回のマルチメディア体験において、色彩の驚くべき役割が明らかになった。『Vulnicura』のカバーアートでは、ビョークはタイトな黒の衣装を身にまとい、そこから青と黄の火花が放射状に広がっている。傷ついた心と共にある黒の闇、極限の哀しみと孤独が、たまにしか起きないが、たしかに生じる明白に幸福な瞬間とコントラストをなす。全ての痛みと哀しみを経験したのち、私たちはつつましやかであろうと求め、学ぼうとするのだ。傷つきやすくない者など存在しない。"Björk Digital"はこうした経験を通して、彼女とともにいることを可能にする。私たちは音楽と一体となったVRテクノロジーが完璧にもたらすこの旅路において、ビョークと2人きりになるのだ。

    <5>"Initiate a touch"

    正直で隠すことない感情表現を果たしたアルバム『Vulnicura』のVR展示のあとは、『Vulnicura』の前作『Biophilia』の展示へと進む。当時のビョークの関心と試みは、音楽、自然、テクノロジーをひとつのアートへと結合させる点にあった。そのためには、単にアルバム『Biophilia』だけでは十分でない。ドキュメンタリー、ワークショップ、2年間のツアーに加えて、ビョークは10のパーツからなるモバイルアプリケーションを開発した。
    ビョークは彼女自身にとって、このアプリケーションは非常に重要な意味を持つと言う。彼女は子どもたちのための音楽教育が充分になされていないと考えており、それを改善するために、科学と音楽の結合を利用したいと望んでいる。事実、ビョークの開発したアプリケーションは、北欧の学校の授業で活用されている。高度かつ野心的なこのソフトフェアのために、ビョークは新たな楽器と記譜法も開発した。ワークショップでは、子どもたちはこのアプリケーションを使って、どのように直感的に作曲するかを学べるのだ。

    連載"Virtual Experiences in Reality"第3回:Björk Digital

    © Santiago Felipe

    『Biophilia』という言葉は、人間と他の生物との自然の絆を表現している。ビョークは耳に聞こえるものだけでなく、結晶成長のような自然現象さえも生み出そうとし、また、私たちに人間と音楽について教えたいと考えている。アプリケーションを起ち上げると、ユーザーはアルバム『Biophilia』に収録された曲にちなんで名付けられた10の星からなる銀河へ飛び込む。銀河を飛行している時にユーザーの耳を舞う周囲音は、彼女の音楽の断片である。それは驚くほどに没入感のある冒険をもたらす。
    星のひとつに触れると、今度はより小さな宇宙へ導かれ、ミニアプリケーションが起動する。ユーザーは星の由来となっている音楽を聴くこともできるし、新たなバージョンをレコーディングし、聴くことが可能だ。ミニアプリケーションのひとつ"VIRUS"では、ウィルスが人間の細胞を攻撃する。ユーザーはウィルスが攻撃する際に、流れている音楽を停止させるか、継続させるかを決定できる。攻撃が止めば、音楽もまた休止する。つまり、細胞のウィルス感染が続くのを認める場合にのみ、ユーザーは残りの音楽を聴き続けられるのだ。アプリケーションデザイナーであるScott Snibbeはこのアプリケーションについて、「これは、細胞とウィルスの一種のラブストーリだ。もちろん、ウィルスは細胞を愛しすぎて、それを破壊してしまう」と表現している。

    <6>"It's growing silently"

    展覧会の最後の部屋では、ビョークがつくり出してきた偉大なる映像は、本展のためにキュレーションされた2時間にわたるミュージックビデオにまとめられている。2DからVRまで、5.1chのシネマサウンドで、ビョークの全てのミュージックビデオを今までにないクオリティで鑑賞できる。また、一連のミュージックビデオを通して、尽きることのないアイデアが、決して彼女を反復に陥らせないことを深く理解する。また、30年の長きにわたって新たに生み出された全てのアルバム、仮面、衣装は、作品に彼女自身を語らせるがゆえに、かえってビョークが本当の彼女の姿を隠そうとしているようにも感じられる。この2時間のミュージックビデオは、これまでどのように彼女の音楽とアートがジャンルの境界を超越してきたかを雄弁に物語っている。

    連載"Virtual Experiences in Reality"第3回:Björk Digital

    © Santiago Felipe

    <7>"What probably confuses people is they know a lot about me, but it quite pleases me that there's more they don't know."

    ビョークは常に彼女のパーソナリティを示すために、シュールなイメージや歌詞を使用してきたが、同時にこうした表現によって、彼女自身を保護し隠してきた。しかし、今回の展示で、私たちはかつてないほどにビョークに近づくことができる。彼女の人生における最も痛ましい出来事の後に生じる感情の深淵をめぐる旅へと向かう。ビョークは彼女と2人きりの世界へと私たちを誘い、彼女はそこで私たちに合図し、そして痛みと進化について語るのだ。
    3つのVR体験を通して、私たちはますますビョークに近づき、ある時点にくると彼女と2人きりであると感じるようになる。『Vulnicura』が彼女の内面の宇宙への視点をもたらすように、『Biophilia』のアプリケーションでは、宇宙を俯瞰する視点をもたらす。まるで映画のように体験できるミュージックビデオの展示では、私は畏怖の念をもって、これらのビデオが彼女の集大成であるように感じていた。しかし、彼女に終わりはない。さる2016年6月28日(水)にここ未来館で行われたビョークのスペシャルライブ撮影は、真のアーティストとは何たるか、という問いに対する私たちの期待をさらに拡充しつづけてくれるにちがいない。

    [注記]
    本稿のタイトル、各パラグラフの見出しは、最初と最後を除き全てビョークの歌詞を引用している。本稿タイトルは"Human Behaviour"(アルバム"Debut"に所収)、パラグラフ<2>は"Stonemilker"、<3>は"Mouth Mantra"、<4>は"Not Get"(いずれもアルバム『Vulnicura』に所収)、パラグラフ<5>は"Sacrifice"(アルバム『Biophilia』に所収)、パラグラフ<6>は"Hit"(ビョークのかつてのバンドThe Sugarcubesのアルバム『Stick Around For Joy』に所収)より引用した。そして<7>のみ、下記のIMDbインタビューより引用した。
    imdb.com/name/nm0001951


    TEXT_ターク・ベンヤミン( 慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科博士課程)
    翻訳・編集:橋本まゆ(ロゴスコープ)

    Written by Benjamin Tag, PhD Student, KEIO University, Graduate School of Media Design
    Translated by Mayu Hashimoto(logoscope)



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      株式会社ロゴスコープは、Digital Cinema映像制作における撮影・編集・VFX・上映に関するワークフロー構築およびコンサルティングを行なっている。とりわけACES規格に準拠したシーンリニアワークフロー、高リアリティを可能にする BT.2020 規格を土台とした認知に基づくワークフロー構築を進めている。最近は、360 度映像とVFXによる"Virtual Reality Cinema"のワークフローに力を入れている。また設立以来、博物館における収蔵品のデジタル化・デジタル情報の可視化にも取り組んでいる。

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