Adobeにて現在、色彩科学首席研究者(Principal Color Scientist)を務めるラース・ボルグ(Lars Borg)氏は、1989年にAdobeに入社して以来、数々の製品の色とHDR(High Dynamic Range)にまつわる貢献を続けてきた。さらにCinemaDNGフォーマットの策定、SMPTE標準化委員会でも活躍し、業界内では「Adobeのビッグブレイン(巨大脳)」と呼ばれている。そんなラース・ボルグ氏に最近の映像業界におけるHDR(High Dynamic Range)事情について話を聞いた。

※本記事は2017年6月上旬に実施された取材内容に基づきます。

TEXT_安藤幸央(エクサ)/ Yukio Ando(EXA CORPORATION)
EDIT_山田桃子 / Momoko Yamada

<1>日本と世界のHDR事情と、Adobeでの仕事について

ーーまず、Adobeでの経歴について教えてください。

ラース・ボルグ氏(以下、ラース):1989年にAdobeに入社し27年間、勤めています。1992年に印刷部門に所属し、印刷物の色、カラーマネジメント部門の管理職をしていました。当時はいわゆる印刷物と写真の色が主流の仕事で、映像制作には携わっていませんでした。その頃、ICC(インターナショナル・カラー・コンソーシアム)※1の議長を務め、2005年頃にはICCが映像に関するカラーマネジメントも追加するようになり、2008年になってCinemaDNG※2という規格にも関わりました。そこではビデオカメラのRAWフォーマット、動画の標準化などについてAdobeの立場から標準化を提唱する役割として関わっていました。CinemaDNGは現在、Blackmagic Designのカメラ製品、DJIのドローンに搭載されているカメラなどに採用されています。

※1 コンピュータやプリンター、モニター、デジタルカメラ、スキャナなどの電子機器で一貫性のある色管理を行うため標準化する国際団体
※2 Adobeによるデジタルシネマ汎用フォーマット

ーーAdobeでは現在、どんな仕事をされているのでしょうか。

ラース:現在は製品チームやプロダクトマネジメントは担当しておらず、製品チームに対して色やHDRに関する助言をするのが主な仕事です。サイエンティスト(科学者)という肩書きはよく誤解を招くのですが、実際はエンジニア的な仕事をしています。Adobeの映像関連の製品だけでなく、PhotoshopのHDR機能なども含め、Adobe社内の全ての製品の色とHDRに関するスーバーバイザーとしての役目を担っています。Adobeの様々な製品担当で色に関する専門家はたくさん居ますが、Adobeの中で色彩科学首席研究者(Principal Color Scientist)という肩書きは私一人です。例外的にAdobe Captureというアプリでは、コンセプトやアルゴリズムも私が提案しました。

ーー現在、日本の大型家電ショップのテレビ売り場は巨大4Kテレビだらけで、さらにHDRテレビも展示されています。これらの製品については、どう考えていますか?

ラース:アメリカでも4Kテレビはここ2年ほどで主流になってきています。ですが4KやHDRを売りにしているテレビがあったとしても、まだまだ映像業界の目から見ると満足できるクオリティには到達していません。4KやHDRは一般消費者の関心は高いですが、課題もたくさん残されているのです。なので現状、提供されている機器としてはまだまだと言えますが、これから映像業界が求めるクオリティのものが出揃ってくることでしょう。

<2>HDRをとりまく環境について

After NAB Showの講演

ーー今回のAfter NAB Showで講演された内容※3について補足があれば紹介してください。「HDRではなく、まだまだSDR※4が一番儲かる。あと5年間はSDRが主流の時代が続く」といったお話しもありましたが?

※3 After NAB Showでのプレゼンテーション資料「HDRTVシステムとその課題」
※4 SDR(従来の輝度表現技術:Standard Dynamic Range)

ラース:1996年にHD解像度のテレビが登場してから20年経った今でも、全てのテレビがHDに置き換わったというわけではありません。家庭内でも、リビングはHDテレビだけれど子供の部屋はSDテレビといった具合に、SD環境が今でも残っていることがあるのではないでしょうか。同様に、映像コンテンツにもまだSDが残っています。例えば、私の家のテレビは700チャンネルあるケーブルテレビに加入していますが、そのうちの半分はSD映像のコンテンツです。このように、HDテレビが登場してから20年経った今でもまだSD環境やコンテンツが残っているので、今後、HDR全盛の時代になったとしても、まだまだSDRが残っていることが予想されます。とは言えそれは、昔のコンテンツが何度も再利用されるアーカイブの問題でもあります。昔の素材は、再スキャンやリマスタリングするメリットが薄いと、そのメディアが続くかぎり最初の映像品質のままなのです。

SDR(Rec.709)とHDR(Rec.2100)の主立った仕様を比べた表(当日の講演スライドより)

アナログフィルムで撮影した映像素材であれば2K SDR、4K HDR、8K HDRとスキャンすることができるので、将来的にリマスタリングするのであれば良い制作方法と言えます。ただフィルムビデオカメラのセンサーの課題として、センサーが撮りきれないものはクリップされてしまうので、SonyやBlackmagicのHDR対応のデジタルカメラで撮っていくのが現時点での良い方法ではないでしょうか。しかし課題は解像度で、2Kから8Kになると必要な帯域が16倍になります。単純な比較になるのですがHDRはさほど帯域を必要とするものではなく、ユーザーにとってみればスポーツ映像であればHDRよりもハイフレームレート(HFR)が必要となってきます。ハイフレームレートはドラマには必要ありませんが、逆にワイドな色域が重要になってくる。8Kを大きなスクリーンで見ると大きな帯域を使い、配信でも高価なシステムが必要となってくる点が課題です。



ーースマートフォンなどのデジタルデバイスでのHDRについてはどうお考えですか?

ラース:スマートフォンなどのデバイスについては仕事で関わっていないのですが、個人的にはとても期待しています※4。スマートフォンの液晶画面の場合、バックライトが常に点灯している状態で、もともともっている光のエネルギーとバッテリーをとても無駄にしています。これがOLED(有機EL)では改善されるのではないかと期待しています。また、液晶のバックライトによる消費電力はテレビでも大きな問題となっていて、ヨーロッパや米国でも規制があり、HDRテレビに影響を与えています。

※4 ここで取り上げているのはスマートフォンのカメラ撮影時のHDRではなく映像再生時のHDRのこと

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<3>オンライン映像配信とHDRついて

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<3>ネット映像配信とHDRついて

ーー最近ではネット配信でもHDR作品の上映が話題になっていますね。

ラース:まずテレビ放送でのHDRですが、放送の場合は状況に応じてダイナミックに帯域を変えることができません。一方ネットの場合、状況に応じて情報量を下げたり上げたりすることができます。Adobeはそういう技術もサポートしており、デバイスによって最適な映像を提供することが可能です。携帯電話回線は最近ではWi-Fiよりも速度が速くなる傾向があり、これからどんどん映像配信のための環境が整ってくると考えています。ですがテレビ放送におけるHDRは、現在まだテストの段階にすら到達していません。しかしNetflixやAmazonプライム・ビデオでは対応可能で、単なる映像配信だけではなく、デバイスに応じたメタデータ配信のメリットもあります。このようにネットの場合、帯域がコントロールできるためHDR環境として大変期待できます。

映像制作の各工程ごとにHDRへの対応状況と課題をまとめた表(当日の講演スライドより)

<4>色に対する追求

ーー講演で取り上げられた「カラリストは永遠に満足しない」という話の真意はどういったものですか?

ラース:まあ、とにかくカラリストは色に満足しないのです(笑)。例えば、映画の中で色調整の作業をすると、特定の色、シーン、コントラストについてHDR環境独特の作業をするわけですが、そういった集中力が必要な作業をするとき、気持ちを切り替えることが難しいのです。プロのカラリストはどんな環境でもベストな結果を出しますが、SDRだとそれらの作業の考え方をまるっきり切り替えないといけない。ですから、ある映画でHDRとSDR、両方のフォーマットでの調整が必要となった場合、どちらかの作業は、気持ちの切り替えができるよう、翌週に作業させてあげてください(笑)。

実際のところHDRとSDRのちがいは、監督が求める映像表現にも大きく影響します。SDRで行える表現には限界がありHDRとのちがいも当然でてきますし、SDRにすることでコントラストが高くなって表現できないこともあり、どうしてもフラストレーションが生じます。HDRの場合は明るさを制限しなくてもよいですが、すでにSDRで仕上げている作品の場合、HDR用に撮影しなおすことはできません。例えば、映像素材に窓が映り込んでいる場合、窓が異常に明るくなってしまうといった現象が生じます。そういったSDRならでは、HDRならではの細かな調整が必要なのです。

SDR版とHDR版を制作する手順のちがいについてまとめた表(当日の講演スライドより)

ーーところで、ラースさんにぜひお聞きしたいことがあります。長年の疑問なのですが、目の色(虹彩)によって、色の感じ方はちがうのでしょうか? 日本人の目はおおよそブラウンだと言われていますが、人によって目の色は異なります。また、例えばインドでは赤みの強いテレビが好まれるとも聞きますが。

ラース:見え方というのは目がどうこうというよりも、実際にはその人のこれまでの経験に依存します。本当にひとりひとりの色の見え方がちがうかどうかは誰にもわかりませんが、色の認知の研究によると、特定の照明器具――例えば蛍光灯を使っている環境にいることが多い人は青っぽい表現やブルーライトに慣れている、ということがわかっています。これは映像表現にも同じことが言え、古い照明器具に慣れた映画監督はそれらの照明器具での色表現に慣れているということです。このように色に対する感覚は人により様々ですが、目の色によって大きく変わることはないと考えています。

<5>色とHDRの世界に親しむために

ーー色やHDRの勉強のために、これを観ておくと良い! という映画があれば教えてください。

ラース:それはなんと言っても『モアナと伝説の海』です(笑)※5! と、まあ私の好みは置いておいて、スティーブン・スピルバーグ監督の『ミュンヘン』という映画がオススメです。ミュンヘンオリンピック事件を描いた作品で、様々な人物の立場やストーリーが切り替わる様子を、映像の色によって巧みに表現しています。

※5ラース・ボルグ氏は現在、『モアナと伝説の海』の舞台にもなったハワイのカウアイ島に住んでいる

"Munich"(2005)Trailer

あとは定番ですが『スター・ウォーズ』シリーズもオススメです。音楽だけでなく色や映像の明るさで様々な雰囲気を表現しています。そういう意味で言うと、どんな映画も色やHDRの勉強になりますね。恋愛映画でも物語が進むにつれて、だんだんカラフルになっていくではないですか!