>   >  新・海外で働く日本人アーティスト:セガに入社し海外赴任で渡米、移籍・帰国を経て再び米国へ 第46回:西山 洋(Sega of America SONIC Pillar / Art Director)
セガに入社し海外赴任で渡米、移籍・帰国を経て再び米国へ 第46回:西山 洋(Sega of America SONIC Pillar / Art Director)

セガに入社し海外赴任で渡米、移籍・帰国を経て再び米国へ 第46回:西山 洋(Sega of America SONIC Pillar / Art Director)

近日公開が予定されている映画『ソニック・ザ・ムービー』。この作品に、コンセプト・アーティストとして参加しているのが西山 洋氏だ。海外駐在員としてサンフランシスコに渡り、移籍、日本への帰国を経た後に再度渡米、そして現在に至るまでの貴重な体験談を語ってもらう。

TEXT_鍋 潤太郎 / Jyuntaro Nabe
ハリウッドを拠点とするVFX専門の映像ジャーナリスト。
著書に『海外で働く日本人クリエイター』(ボーンデジタル刊)、『ハリウッドVFX業界就職の手引き』などがある。
公式ブログ「鍋潤太郎☆映像トピックス」


EDIT_山田桃子 / Momoko Yamada

Artist's Profile

西山 洋 / Nishiyama Hiroshi(Sega of America SONIC Pillar / Art Director)
福岡県出身。1995年、東京藝術大学大学院修了、セガでソニックチームのデザイナーとしてキャリアをスタート。1999年にSega of America SONIC Team USAへ異動しLead Environment Artistとして『ソニック』シリーズの開発に携わり8年間サンフランシスコに駐在。その後、複数のゲーム会社で経験を積んだ後、家庭の事情で一度日本へ帰国。2014年からセガに戻り、再度アメリカへ駐在。モバイルゲーム開発を経て、2019年3月からアートディレクターとしてLos AngelesにあるSega of America SONIC Pillarに駐在、ゲーム開発はじめ、マーチャンダイジング、アニメーションなど、ソニックコンテンツのアートディレクションを担当、現職

<1>セガに入社後、海外赴任でアメリカへ

――日本での学生時代の話をお聞かせください。

子供のときから絵を描いたり工作をしたり、アニメや漫画、SFファンタジー系の映画を見たりするのが好きでしたが、今のような情報がある時代でもなく、北海道の田舎に住んでいたため、それらが仕事に繋がるイメージは全くもっていませんでした。

親の転勤で東京に来てから、初めて「美術デザイン関係でご飯が食べて行けそうだな」とイメージができて美術志望となり、東京藝術大学美術学部 デザイン科に入学しました。当時は勉強しながらも、他にも様々なことを楽しんで経験しながら、学生生活を送っていましたね。クラブやカフェの店舗内装や装飾、壁画を描いたり、スノーボードを始めてショップのサポートで大会に出たりもしていました。

外で遊んでいることが多かったからか、家の中で家庭用ゲーム機で遊ぶより、ゲームセンターでアーケードゲームを良くやっていて、『バーチャーファイター』などの3Dゲームには衝撃を受けてハマっていました。ドット絵とちがう表現と体験に、何かそれまでとちがう時代が来そうで面白くなりそうだなと思ったのと、雑誌で日本のゲームが海外で評価されている記事などを読んで、自分のデザインが世界中で遊んで楽しんでもらえるのは素晴らしい仕事になるなと思い、ゲーム業界に行こうと進路を決めました。

94年当時では広告代理店やTV局、車などのメーカーの入社試験を受ける人が多かったのですが、親や周囲の心配をよそに、ゲーム会社のみをいくつか受けて、セガ・エンタープライゼス(現・セガ)に入社しました。

――日本でお仕事をされていた頃の話をお聞かせください。

入社してからの4年間は日本のスタジオで働いていました。振り返ってみると、セガサターンの『NiGHTS into dreams...』を担当していた新人時代は、デザインスケッチをはじめ、3Dモデリング、アニメーションなど様々なデータ制作をマルチにこなす上司、先輩達の中で、何をつくっても今ひとつな、完全にお荷物の社会人スタートでしたね。

厳しい環境でしたが、日々学ぶことが多く、制作に対する厳しい姿勢やクオリティへの探究心、技術を含め、ゲームにおけるデザインはどのようにするべきかの考え方など、大学院卒で遅い社会人デビューした分を十分埋められる素晴らしいプロジェクトでキャリアをスタートできました。あのころの上司やプロジェクトメンバーに出会ってなかったら、今の自分はいなかったなと思うくらい本当に感謝しています。

昼夜問わずゲーム開発しながら、休憩時間には他社のゲームをプロジェクトメンバーとプレイしたりとゲーム漬けの毎日。そんななか、こだわってつくったタイトルを世界に届けることができ、楽しく働いていました。

98年にドリームキャスト向けに発売された『ソニックアドベンチャー』の開発の頃には、中南米に取材旅行に行くことができました。実際に見たものや経験したことを、アイデアとして活かしデザインコンセプトをつくり、仕事に新たな手応えを掴んだりもしていて、思えば異国の自然や文化に触れることの良さを知る、きっかけだったと思います。

開発実績が認められ、次回作『ソニックアドベンチャー2』の開発拠点であるアメリカに赴任するメンバーに選ばれましたが、一度は断ってしまいました。当時日本での会社生活は楽しく、日本でつくったものが海外でもリリースされており、あえて行く必要性は感じませんでしたし、そもそもアメリカで働いて暮らすイメージが全くありませんでした。

しかし、たくさんいるメンバーから自分を信頼して選んでくれたことですし、赴任先のサンフランシスコで以前訪れた中南米取材旅行のように、新しい体験からアイデアを得て世界のユーザーにゲームを届けることができるのは大きなチャンスだと思い直し、1999年の4月に渡米しました。  

――駐在員として海外赴任され、渡米後の生活はいかがでしたか。

渡米してみると、そこで得られたものは大きく、新しく感じる自然の風景、光、色彩、季節イベント、街の文化など、オンオフ含め、何から何まで自分にプラスになるものばかりでした。

そこでつくった『ソニックアドベンチャー2』、『ソニック ヒーローズ』などは、アメリカに住んでなければつくれなかったタイトルでした。業績も良く任期も伸びてLビザからEビザに切り替えて長期駐在していると、自分のキャリアも見つめ直すようにもなりました。セガやソニックの仕事は好きでしたが、現地での成功体験からこのままアメリカでキャリアを積んでみたい気持ちが大きくなり、転職活動を開始しました。

ポートフォリオ、レジュメをつくって、知り合いづてに会社に連絡してもらったり直接会社訪問などを行なった結果、無事現地でのオファーを得ることができ、アメリカで複数の会社のキャリアを積むこともできました。

現地採用として、バンダイナムコの米子会社NAMCO BANDAI Games America(現・BANDAI NAMCO Entertainment America)、続いてGREEの米子会社GREE International(当時)で5年間勤務しました。当時の自分は10年後の2019年にセガに戻って、アメリカで同じ上司とまた一緒に働くとは夢にも思わず、目の前に開いた次の挑戦にワクワクしていました。

そして、家庭の事情で2013年に日本のGREE本社に転籍し、一度帰国しました。その後、2014年からセガに戻り、再度アメリカへ駐在、現在に至ります。


Creative Teamメンバーとの写真

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<2>Sega of Americaで『ソニック』のアートディレクションを担当

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