近日公開が予定されている映画『ソニック・ザ・ムービー』。この作品に、コンセプト・アーティストとして参加しているのが西山 洋氏だ。海外駐在員としてサンフランシスコに渡り、移籍、日本への帰国を経た後に再度渡米、そして現在に至るまでの貴重な体験談を語ってもらう。
TEXT_鍋 潤太郎 / Jyuntaro Nabe
ハリウッドを拠点とするVFX専門の映像ジャーナリスト。
著書に『海外で働く日本人クリエイター』(ボーンデジタル刊)、『ハリウッドVFX業界就職の手引き』などがある。
公式ブログ「鍋潤太郎☆映像トピックス」
EDIT_山田桃子 / Momoko Yamada
Artist's Profile
西山 洋 / Nishiyama Hiroshi(Sega of America SONIC Pillar / Art Director)
福岡県出身。1995年、東京藝術大学大学院修了、セガでソニックチームのデザイナーとしてキャリアをスタート。1999年にSega of America SONIC Team USAへ異動しLead Environment Artistとして『ソニック』シリーズの開発に携わり8年間サンフランシスコに駐在。その後、複数のゲーム会社で経験を積んだ後、家庭の事情で一度日本へ帰国。2014年からセガに戻り、再度アメリカへ駐在。モバイルゲーム開発を経て、2019年3月からアートディレクターとしてLos AngelesにあるSega of America SONIC Pillarに駐在、ゲーム開発はじめ、マーチャンダイジング、アニメーションなど、ソニックコンテンツのアートディレクションを担当、現職
<1>セガに入社後、海外赴任でアメリカへ
――日本での学生時代の話をお聞かせください。
子供のときから絵を描いたり工作をしたり、アニメや漫画、SFファンタジー系の映画を見たりするのが好きでしたが、今のような情報がある時代でもなく、北海道の田舎に住んでいたため、それらが仕事に繋がるイメージは全くもっていませんでした。
親の転勤で東京に来てから、初めて「美術デザイン関係でご飯が食べて行けそうだな」とイメージができて美術志望となり、東京藝術大学美術学部 デザイン科に入学しました。当時は勉強しながらも、他にも様々なことを楽しんで経験しながら、学生生活を送っていましたね。クラブやカフェの店舗内装や装飾、壁画を描いたり、スノーボードを始めてショップのサポートで大会に出たりもしていました。
外で遊んでいることが多かったからか、家の中で家庭用ゲーム機で遊ぶより、ゲームセンターでアーケードゲームを良くやっていて、『バーチャーファイター』などの3Dゲームには衝撃を受けてハマっていました。ドット絵とちがう表現と体験に、何かそれまでとちがう時代が来そうで面白くなりそうだなと思ったのと、雑誌で日本のゲームが海外で評価されている記事などを読んで、自分のデザインが世界中で遊んで楽しんでもらえるのは素晴らしい仕事になるなと思い、ゲーム業界に行こうと進路を決めました。
94年当時では広告代理店やTV局、車などのメーカーの入社試験を受ける人が多かったのですが、親や周囲の心配をよそに、ゲーム会社のみをいくつか受けて、セガ・エンタープライゼス(現・セガ)に入社しました。
――日本でお仕事をされていた頃の話をお聞かせください。
入社してからの4年間は日本のスタジオで働いていました。振り返ってみると、セガサターンの『NiGHTS into dreams...』を担当していた新人時代は、デザインスケッチをはじめ、3Dモデリング、アニメーションなど様々なデータ制作をマルチにこなす上司、先輩達の中で、何をつくっても今ひとつな、完全にお荷物の社会人スタートでしたね。
厳しい環境でしたが、日々学ぶことが多く、制作に対する厳しい姿勢やクオリティへの探究心、技術を含め、ゲームにおけるデザインはどのようにするべきかの考え方など、大学院卒で遅い社会人デビューした分を十分埋められる素晴らしいプロジェクトでキャリアをスタートできました。あのころの上司やプロジェクトメンバーに出会ってなかったら、今の自分はいなかったなと思うくらい本当に感謝しています。
昼夜問わずゲーム開発しながら、休憩時間には他社のゲームをプロジェクトメンバーとプレイしたりとゲーム漬けの毎日。そんななか、こだわってつくったタイトルを世界に届けることができ、楽しく働いていました。
98年にドリームキャスト向けに発売された『ソニックアドベンチャー』の開発の頃には、中南米に取材旅行に行くことができました。実際に見たものや経験したことを、アイデアとして活かしデザインコンセプトをつくり、仕事に新たな手応えを掴んだりもしていて、思えば異国の自然や文化に触れることの良さを知る、きっかけだったと思います。
開発実績が認められ、次回作『ソニックアドベンチャー2』の開発拠点であるアメリカに赴任するメンバーに選ばれましたが、一度は断ってしまいました。当時日本での会社生活は楽しく、日本でつくったものが海外でもリリースされており、あえて行く必要性は感じませんでしたし、そもそもアメリカで働いて暮らすイメージが全くありませんでした。
しかし、たくさんいるメンバーから自分を信頼して選んでくれたことですし、赴任先のサンフランシスコで以前訪れた中南米取材旅行のように、新しい体験からアイデアを得て世界のユーザーにゲームを届けることができるのは大きなチャンスだと思い直し、1999年の4月に渡米しました。
――駐在員として海外赴任され、渡米後の生活はいかがでしたか。
渡米してみると、そこで得られたものは大きく、新しく感じる自然の風景、光、色彩、季節イベント、街の文化など、オンオフ含め、何から何まで自分にプラスになるものばかりでした。
そこでつくった『ソニックアドベンチャー2』、『ソニック ヒーローズ』などは、アメリカに住んでなければつくれなかったタイトルでした。業績も良く任期も伸びてLビザからEビザに切り替えて長期駐在していると、自分のキャリアも見つめ直すようにもなりました。セガやソニックの仕事は好きでしたが、現地での成功体験からこのままアメリカでキャリアを積んでみたい気持ちが大きくなり、転職活動を開始しました。
ポートフォリオ、レジュメをつくって、知り合いづてに会社に連絡してもらったり直接会社訪問などを行なった結果、無事現地でのオファーを得ることができ、アメリカで複数の会社のキャリアを積むこともできました。
現地採用として、バンダイナムコの米子会社NAMCO BANDAI Games America(現・BANDAI NAMCO Entertainment America)、続いてGREEの米子会社GREE International(当時)で5年間勤務しました。当時の自分は10年後の2019年にセガに戻って、アメリカで同じ上司とまた一緒に働くとは夢にも思わず、目の前に開いた次の挑戦にワクワクしていました。
そして、家庭の事情で2013年に日本のGREE本社に転籍し、一度帰国しました。その後、2014年からセガに戻り、再度アメリカへ駐在、現在に至ります。
Creative Teamメンバーとの写真
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<2>Sega of Americaで『ソニック』のアートディレクションを担当
<2>Sega of Americaで『ソニック』のアートディレクションを担当
――現在の勤務先は、どんな会社でしょうか?
Sega of America内に、「ソニックピラー(SONIC Pillar)」という、『ソニック』ビジネスを統括する組織があり、エンタテインメント産業に精通しているスタッフが、バーバンク(ハリウッド周辺)のオフィスに集結しています。
そこにはゲーム開発をはじめ、玩具やアパレルなどのライセンス、アニメーション、SNSやマーケティングなどを担当している30名ほどが在籍しています。SNSやイベントでファンに対して発信し、新規ユーザーへの獲得も図りながら、様々なコンテンツを開発し、世界中に届けて楽しんでもらうためのビジネスを展開しているスタジオです。
社内イベントも大切にするスタジオで、バースデイパーティ、ハロウィンやクリスマスの他、タイトルリリース記念に全員で食事に行ったりアットホームな雰囲気があります。
――最近参加された作品についてお聞かせください。
先日は会長、役員、社員も交えて、映画『ソニック・ザ・ムービー』(原題:Sonic the Hedgehog)のプレミア試写会に行きました。この映画のエンドロールで「Sonic's Island Concept Artist(Sega)」として名前がクレジットされたのを見たときは、物凄く嬉しかったですね。試写会後にソニックの声を務める俳優ベン・シュワルツに握手を求められたりと、人生最良の日でした。
苦労している点で言えば、ゲーム開発以外のアパレルやマーチャンダイジング関係は今まで経験がないので、当初は苦労しました。シーズンごとに各世代や性別に向けてアパレルデザインの方向性を決める、スタイルガイドの会議が行われるんですが、最初は資料を見ても考え方がまとまらず、自分の意見を加えることも難しかったです。
幸いLAはファッションや物質的な部分においても刺激や情報も収集しやすいので、週末肌で感じながら色々とリサーチして日々の業務に活かしています。
――現在のポジションの面白いところは何でしょうか。
私は『ソニック』に関する全クリエイティブ面のアートディレクションを担当しています。いいゲームをつくって、ファンの方に喜んでいただくことはもちろん大切なことなのですが、ゲームに留まらず、様々な分野で『ソニック』が世界中に広まることによって、ファン層をさらに拡大することに挑戦しています。
新しい経験も多く、苦労は常にありますが、現地の様々な人種と世代に囲まれて意見を交わし、新しいものを生み出すことにやりがいを感じています。
私としてはソニックというキャラクターを大事にしながらも、ゲームや商品開発において新しいことにも取り組んで行きたいと考えています。21年前に渡米して感じたように、世界のユーザーに向けて新たな感動体験を与えることができたら、自分がセガに戻ってきた意味もあるのかなとも思って、日々挑戦を楽しんで働いています。
――英語や英会話のスキルはどのように習得されましたか?
最初の渡米で8年間ほど駐在していましたが、その間は日本人開発者と働く環境にいたので、暮らしは何とかなっても、現地で業務を進めるに英語力が不足していました。なので現地採用になったときには、パソコンのモニターに成果物を付き合わせることで何とか凌いでいたのですが、そういうことができない会議などでは理解不足だったり発言できなかったりで、かなり苦労しました。
自宅で文法や単語の勉強はしていましたが、一番力を入れていたのは40~50分ほどの毎日の通勤時や週末遊びに行くときの長距離移動時の車内でポッドキャストを聞いての勉強です。ただ漫然と聞いているだけでは覚えられないので、最初は業務で使うためのフレーズ、社内コミュニケーションを円滑にするフレーズなどを選んで聞くようにしていました。シャドーイングするにも車内はちょうど良かったですし、出勤後にはそこで学んだ英語を使ってみて感触を得ていました。
また、仕事ではタイトルリリースの締め切りまで時間のない状態の業務が、一番英語力を伸ばすことができました。ミスが許されない状況で、文法が合っているかななど考えている場合ではなく必死で伝え、状況も状況なので相手も真剣に聞いてくれる。わからなければ何度も聞いてもらっての繰り返しにより、随分鍛えられました。とにかく恥ずかしがらず、話してみる、たくさん使って慣れることが大事だったと思います。
――将来、海外で働きたい人へのアドバイスをお願いします。
今の時代はネットを通じて作品を公開できたり、人との繋がりも得やすい環境があります。そうした繋がりをきっかけに、ぜひ現地に来て直接会って話したり、肌で感じてみてください。
社会人は時間がなく、現地を訪れることが大変とも思いますが、そこから新たな紹介や出会いがあり、その人となりも伝えることもできます。同じスキルなら、知っている人からの紹介の方が断然有利ですから、決して無駄にはならないと思います。
実際そうした行動をしている方を見てきましたが、タイミングもあり直ぐに採用まで行かなくても、感触を得て次のインタビューや活動に繋げています。もちろん、企業に欲しいと思わせるスキルをもっているということは重要ですので、そのあたりも含めがんばってください。応援しております。
『ソニック・ザ・ムービー』プレミア試写会にて、Sega of AmericaのChief Brand Officerと
【ビザ取得のキーワード】
①東京藝術大学 美術学部 デザイン科 大学院修士課程修了
②日本のセガで『ソニック』シリーズ開発実績を積み海外転勤、渡米 L-1ビザ→Eビザ
③現地の会社に転職、O-1ビザ→グリーンカードを取得
④家庭の事情のため日本帰国の際、グリーンカードを返還。セガに戻りセガ・オブ・アメリカに駐在、L-1ビザ
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