本連載では、CG映像制作におけるテクニカル系スタッフの仕事の現状と課題を、パイプライン開発の専門家である痴山紘史氏(日本CGサービス(JCGS)代表)が探っていく。第12回では、ペンタブレットで世界的に知られるワコムを取材。
後編では、製品企画と技術開発のすり合わせの実態や、「利用時品質」という評価軸、そしてペンを核にハードウェアとソフトウェアを横断して体験を設計していく開発思想に焦点を当てる。ワコムが「描く体験」をいかに構想し、実装しているのか、その舞台裏に迫る。
企画と技術のすり合わせは、構想前から始まっている
CGWORLD:Wacom MovinkPad Pro 14の仕様は一見すると企画先行にも見えますが、実際にはかなり早い段階で技術的な成立性を見極めているはずです。あらかじめ「この方向なら実現できる」という見通しをもった上で、企画が立ち上がっているのでしょうか。
川副裕之氏(以下、川副):そうですね。ただ今回は、既存技術の単純な組み合わせで実現できたわけではなく、いくつか新しい挑戦も含まれていました。ペンで描く体験において、ディスプレイは中核となる要素です。そのため、日常的に研究開発を続けています。
企画側とは日頃から密に意見交換をしており、「こういう技術がある」、「こういう方向性はどうか」といったやり取りを継続的に行なっています。企画側が描く製品像と、エンジニア側が現実的に提供可能な技術をすり合わせ、その上でコストを含めた落としどころをどう設定するかを、並行して検討していくかたちです。
そうしたプロセスがあるため、「製品化が決まってから技術検討を始める」ということはありません。特にペンやディスプレイ、メカニカルな機構といった領域については、常に次の可能性を見据えて検討を重ねています。「次に求められるものは何か」を想定し、いつでも提案できる状態を保つことを重視してきました。
今回実現できた要素も、そうした継続的な取り組みのいくつかが成果につながったものです。十年前であれば実現が難しかったレベルに到達できたと感じています。
▲川副裕之氏(Engineering Group EMR Module Product Innovation Senior Director)
秋場啓介氏(以下、秋場):例えばWacom MovinkPad Pro 14の反射防止技術についても、かなり以前から議論を重ねてきたテーマです。私の入社直後に発売されたポータブルデバイスは、ワコムとして初めてOLEDを採用した製品でしたが、表面処理の影響で、その性能を十分に引き出せていない印象がありました。
そこで、「表面処理を見直すことで改善できないか」という検討を、企画着手の前段階からエンジニア側と継続してきました。
▲秋場啓介氏(ブランドビジネス ポートフォリオマネジメント シニアマネージャー)
川副:エンジニアの立場から言えば、技術そのものはコストをかければ様々な選択肢が考えられます。ただし、それが製品として本当に価値をもつのかは別の問題です。どれだけ優れた技術でも、「高価すぎて使えない」となれば意味がありません。
重要なのは、「これは欲しい」とユーザーに感じてもらえるかどうかです。今回の表面処理も、当初はコスト増が見込まれる要素でしたが、企画側から強い要望があったため、改めて実現する方法を検討していきました。
このように、エンジニアリングの判断も、マーケットや製品企画の視点と往復しながら進めていく必要があります。従来であれば「必要性が低い」と判断されていた技術でも、今回は価値があると見極め、採用に踏み切りました。
その結果、描画時の見え方を損なうことなく、反射を抑えられました。反射がなくなることで視覚的なノイズが減り、描画時の没入感が大きく向上しています。また、OLED本来の黒の深みも損なわれていません。さらに描き味の向上を実現できたので、全体として高いバランスを実現できたと考えています。
“仕様通りに動く”では不十分。ワコムが重視する「利用時品質」
鈴木啓高氏(以下、鈴木):ソフトウェアの立場から見ると、ハードウェアとソフトウェアでは開発の進め方が大きく異なります。ハードウェアは先んじて仕様を固める必要があり、一度決定すると大きく変更できません。一方、ソフトウェアは開発を進めながら最適化していく性質があり、むしろその柔軟性が前提になります。こうした進め方の異なる領域をどのように整合させるかは、常に難しい課題です。
その上で、ユーザーの声をどのように実装へ反映するかという点において、ワコムのソフトウェア開発が最も重視しているのは「体験」です。ワコムでは、この体験価値を「利用時品質」として捉えています。利用時品質はISOでも規定されている概念で、単に仕様通りに動作するかといった製品品質や機能品質に留まらず、実際に使ったときにユーザーにとって意味のある体験になっているか、すなわち「ユーザーが感じる品質」までを評価対象とする考え方です。
利用時品質は、「有効さ」、「効率」、「満足度」の3つの指標で定義されています。すなわち、目的を達成できるか、効率よく操作できるか、そして体験に満足できるか、という観点です。前二者は比較的定量化しやすい一方で、満足度は指標だけでは把握できません。そのため、ユーザーの声を直接拾い上げることが不可欠になります。
ただし、それを製品リリース後に収集するだけでは不十分です。開発段階から、ユーザーがどのように受け取るか、どのように感じるかを可能な限り把握し、設計に反映していく必要があります。このサイクルをいかに成立させるかが、ワコムのソフトウェア開発における重要なポイントです。ユーザーの声を積極的に取り入れるというよりも、むしろその上に開発が成り立っていると言った方が実態に近いでしょう。
簡単に言えば、製品化前の段階からユーザー視点での評価を組み込んでいるということです。ただし、開発中の製品は秘匿性が高いため、不特定多数を対象とした検証は難しいという制約があります。この制約の中で、いかに検証の機会を設計するかは継続的な課題です。
最終的には、自分たちが価値があると信じるものをかたちにしますが、その過程では一度開発者の視点を離れ、ユーザーにとってこの体験がどう見え、どう感じられるのかを検証する機会を意図的に設けています。そうした試行を重ねながら、体験の精度を高めていく取り組みを続けています。
▲鈴木啓高氏(Principal of UX and Service Design/Head of Software Technology and Experience Development)
なぜWacom Canvasは“紙と鉛筆”に近いのか
鈴木:Wacom MovinkPad Pro 14では、“紙と鉛筆”の感覚を、最初に触れた瞬間から自然に得られるかを重視しています。
例えば、Quick drawing機能を有効にしておけば、電源操作を挟まず、そのままペン先を置いて描き始めることができます。描き始めまでの時間をいかに短縮できるか。この初動の体験は特につくり込んでいます。その上で重要になるのが書き心地です。線の出方や視覚的な印象など、言語化しにくい領域も含めて、「鉛筆らしさ」を感じてもらえるようレンダリング処理をつくり込んでいます。
AndroidスケッチアプリのWacom Canvasは、機能を意図的に絞り込んで設計しています。「紙と鉛筆で描く」という体験に特化し、それ以外の要素は極力排除しているんです。一般的な制作ツールは機能の拡張に伴って処理負荷が増大しがちですが、本ツールでは必要最小限の機能に限定することで、その分のリソースを描画体験の品質向上に集中させています。この軽快さや描き味は特定の機能によるものではなく、設計方針のちがいによって生まれているんです。ハードウェアとの相性も一因ではありますが、専用の特別なしくみがあるというより、どこにリソースを割くかという判断の積み重ねが結果に表れていると考えています。
私たちが目指しているのは、あくまで“デジタルの紙”です。「それなら紙でいい」という意見もあるでしょうが、デジタルだからこそ実現できる描画体験を提示したいと考えています。
そのため、「すぐに描けて、すぐに没入できる」状態をいかに自然に実現するかを重視してきました。当初はピンチイン・アウトのような操作も不要と考えていましたが、検討を重ねる中で「やはり必要だ」という意見を採り入れ、実装することにしました。機能は最小限に抑えつつ、没入を支える要素は確実に組み込む、そのバランスを重視しています。
秋場:UXの観点では、描いた際に生じる違和感をどこまで取り除けるかが重要です。紙はひとつの基準ですが、単にそれを再現するのではなく、場合によっては紙以上に快適と感じられる描き味を目指していきたいと考えています。
ペンを核にした開発文化と、技術の蓄積
川副:しっかり議論を重ねて開発したものは、一定の手応えをもって受け止めていただけることを、Wacom MovinkPad Pro 14の開発時にも実感しました。近年は、ユーザーの声の収集や競合調査をより重視するようになっています。
ただし、それだけでは不十分であり、こちらから提案していく姿勢が不可欠だと考えています。ワコムが取り組まなければ誰も手をつけない領域は、まだ多く残されています。ユーザーがどのような場面で製品を使い、制作や作業のプロセスが今後どう変化していくのか。ハードウェアや関連技術が進化し続ける中で、ワコムとしてどのような価値を提示できるのかは、常に想像力を働かせて考える必要があります。
技術面では、各領域で経験を積んだ専門家が社内に多く在籍しており、技術ロードマップを策定しながら、次の製品に向けた提案を継続的に検討しています。ディスプレイについては他社の動向も参照できるため、比較的見通しを立てやすい領域です。ハードウェア開発は慎重さが求められますが、開発期間が過度に長期化しないよう、最終仕様の確定前から複数のサンプルを用意して検証と議論を重ねています。金型制作の着手時期を遅らせないことも重要なポイントです。
ワコムが最も差別化すべき領域はペンであるため、その開発は早い段階から先行して進めています。ペン技術のチームは、製品のサイズやディスプレイ仕様が確定次第、即座に設計・試作に着手できる体制をとっています。ペン技術の基盤開発には長いリードタイムが必要です。現行世代の技術を展開しながら、次世代に向けた基礎研究を継続して進める必要があります。社内には将来技術の開発に専従するメンバーもおり、次の飛躍に備えた準備を常に進めています。
このように、ワコムにおけるペン開発は、単に目の前の製品を完成させるためのものではなく、その先の世代まで見据えて継続的に仕込みを行うプロセスといえます。
残された課題と次の打ち手
川副:初めて当社の製品に触れたユーザーであっても、「全てが自然で快適に動く」と感じられる水準には、まだ達していない部分があると認識しています。そうした違和感や引っかかりを一つひとつ洗い出し、着実に解消していくことが今後の課題です。
ペンの進化は引き続き重要ですが、もう一つの大きなテーマがタッチ操作です。この領域はユーザーの使い方によって評価が分かれます。描画中も自然にタッチを併用する人がいる一方で、タッチを無効化し、ペンのみで操作する人もいます。現時点ではタッチを活用した操作体験の最適解は確立されておらず、今後さらに進化の余地があると考えています。
鈴木:ソフトウェアの観点では、Wacom MovinkPadシリーズで実現している体験をさらに洗練させていくことが、短期から中期にかけての主軸になります。ユーザーとの対話を通じて改善を重ね、体験の完成度を高めていく方針です。そのための取り組みとして、「Wacom Lab」では実験的な機能を早期に公開し、実際の使用環境でフィードバックを得ながら改良を進めています。
さらに中長期的には、現在中心となっている2D制作に留まらず、「描く、書く、かく」から広がる多様な表現や制作プロセスに、当社のデバイスやソフトウェアが関与できる可能性を模索していきます。
秋場:企画の立場としては、現状の製品にはまだ改善の余地があると考えています。多くのユーザーが「こういうものだから仕方ない」と受け入れている部分にも、本来は見直すべき点が残っています。先程のタッチ操作はその代表例ですし、異なるデバイス間での色再現の問題もあります。描いた結果が別のデバイスで異なって見える場合、ユーザーに調整の負担を強いることになります。その時点で、描くことへの没入感は妨げられていると言えます。
ただし、これらの課題はワコム単独で解決できるものばかりではありません。パートナーとの連携が不可欠な領域も多く含まれています。現状はまだ取り組みの途上にあり、これから本格的に改善を進めていく段階だと捉えています。
求められる人材像と組織のあり方
川副:ハードウェア領域は中途採用の比率が高く、各分野で専門性を磨いてきたメンバーを中心に構成されています。そうしたメンバーには、蓄積してきた技術をベースに、自ら提案できる力を期待しています。加えて、ワコムの製品やユーザー理解を深めるため、ユーザーとの接点や検証の場にも積極的に関わることを推奨しています。最近は経験豊富なエンジニアと、新卒を含む若い世代が同じ場で議論を重ねる機会も増えており、視点の更新と知見の共有が進んでいます。
鈴木:ソフトウェア領域でスキル以上に重視しているのが、人間中心設計やユーザー志向といった価値基準を共有できるかどうかです。こうした思想は、ソフトウェア単体で完結するものではありません。デザイナーやハードウェアエンジニアとフラットに議論し、領域を越えて連携できる姿勢が不可欠です。
そのため、「ソフトウェアだけを担当する」という閉じたスタンスではなく、自身の専門領域の外にも関心を広げ、必要に応じて越境できる柔軟性を重視しています。また、グローバルな開発体制の中で、多様な文化や価値観をもつメンバーと協働しながら、最終的にユーザー価値という共通の目標に収束できるかどうかも重要な要素です。
秋場:企画において最も重要なのも、マインドセットです。競合には規模の大きな企業も多く、そこと戦うには相応の覚悟が求められます。徹底的に思考し、手を動かし、現場に足を運ぶ。その積み重ねを前提にできるかどうかが出発点になります。
製品企画は一見すると抽象的に見えがちですが、実際には顧客の声と技術の双方をふまえ、判断軸を明確にした上で、製品に落とし込むことが不可欠です。さらに、最終段階では取捨選択が問われます。何を残し、何を削るのか。その決断に責任をもち、最後までやり切る姿勢が求められます。
まずは体験してほしい、その理由
川副:まずは当社の製品に触れていただきたい、というのが率直な思いです。表面処理の話も含め、体験の質に関わる部分は、言葉だけでは伝えきれません。実際に手に取った際、多くの方に想像以上の感覚を実感いただいています。まずは体験していただくことが何より重要だと考えています。
秋場:もちろん購入していただければありがたいですが、それ以上に、まず触れていただけたらという思いが強いです。ペンタブレットは長期間使われる製品ですが、その間にも技術はアップデートされており、改善が積み重ねられています。最新の製品は、描き心地を含め、様々な面で確実に進化していますので、創作活動のさらなる向上に貢献できると思っています。
興味をもたれた場合は、量販店に加え、Wacom Baseのような体験スペースも活用いただければと思います。落ち着いた環境で比較や試用ができ、スタッフが常駐しているため、細かな疑問にもその場で対応できます。製品ごとのちがいを体験として理解していただける場になっています。
筆者まとめ
本取材を通じて印象的だったのは、一般に“ペンタブレットメーカー”として認識されがちなワコムが、実際には“ペン入力体験”を中核に据えて製品開発を行なっている点でした。ディスプレイや筐体、ソフトウェアといった各要素は個別の論点に見えますが、いずれも「いかに自然に描けるか」、「いかに即座に没入できるか」という一点に収束しています。
ワコムの強みは、単なるデバイス性能の高さではなく、ペンを軸にハードウェア、ソフトウェア、UXを横断して積み重ねてきた技術の総体にあるのだと感じました。その思想を体現したWacom MovinkPad Pro 14は、機能を絞り込みながら描く体験の本質を磨き込む同社の姿勢を端的に示す製品だと言えます。
痴山紘史
日本CGサービス(JCGS) 代表
大学卒業後、株式会社IMAGICA入社。放送局向けリアルタイムCGシステムの構築・運用に携わる。その後、株式会社リンクス・デジワークスにて映画・ゲームなどの映像制作に携わる。2010年独立、現職。映像制作プロダクション向けのパイプラインの開発と提供を行なっている。
TEXT_痴山紘史/Hiroshi Chiyama(日本CGサービス)
EDIT_尾形美幸/Miyuki Ogata(CGWORLD)
PHOTO_弘田 充/Mitsuru Hirota