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3DCGエンジニアからアカデミアに転身 ~藤田至一氏に聞く「博士号」の意味

3DCGエンジニアからアカデミアに転身 ~藤田至一氏に聞く「博士号」の意味

企業や自治体などでの実務経験をもち、大学などで教育研究の指導を行う教員、いわゆる「実務家教員」の登用が続いている。2019年度から新設された専門職大学では、専任教員の4割以上を実務家教員とする規定があるほどだ。その中には豊富な実務経験だけでなく、学術研究を極めて「博士号」を併せもつ者もいる。

その一人が現在、東京国際工科専門職大学で専任講師を務める藤田至一氏だ。藤田氏は、ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時)、ハル研究所でゲーム開発に従事し、東京藝術大学大学院で博士号を取得している。

産業界から学術界への転身の理由や、実務家が博士号を取る意味について、自身のキャリアをふり返りながら話を聞いた。

INTERVIEW_小野憲史 / Kenji Ono
EDIT_小村仁美 / Hitomi Komura(CGWORLD)、山田桃子 / Momoko Yamada

バンドブームの影響で音楽に夢中だった10代

CGWORLD(以下、CGW):藤田さんはプログラマーとしてゲーム開発に携わられた後、30代で大学院に入り直されたんですよね。社会人を対象としたリカレント(学び直し)教育が叫ばれる中、先駆けのようなキャリアですね。

藤田至一氏(以下、藤田):結果的にそうなっただけで、別にキャリアアップをねらってどうこう、といったわけではありませんけどね。

CGW:実はCGWORLD.jpの読者は30代を中心として、20代と40代が正規分布しているんです。30代ってキャリアについて考え始める時期じゃないですか。このままで良いのかなって。

藤田:はいはい。そういう意味では、自分はドンズバかもしれませんね。

CGW:しかも、修士課程だけでなく、博士課程に進まれて、博士号まで取られて。近年では実務家教員も増えていますが、なかなか博士号まで取る人は少ないと思うんですよ。なので、今日はキャリアをふり返りつつ、博士号や博士論文に関する話もお伺いできればと思っています。

藤田:はい、よろしくお願いします。


  • 藤田至一/Yoshikazu Fujita

    東京藝術大学大学院 映像研究科メディア映像専攻 修了。博士(映像メディア学)。研究分野は創作活動におけるシステム開発手法。株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメント、株式会社ハル研究所などで、映像・ゲームの制作環境開発に従事。活動の場をメディア・アートにも拡大し、研究を続けている。CEDEC 2013登壇。東京藝術大学で非常勤講師を務め、現在に至る

CGW:ちなみに、何歳でいらっしゃいますか?

藤田:1969年生まれで、今年で51歳ですね。東京都練馬区の出身で、父親は大学の先生で、労働福祉が専門でした。母親はインテリアコーディネーターで、家具なども手がけていましたね。

CGW:先生の子どもが先生になったわけですね。

藤田:そうですね。分野はまったくちがいますが、何かこう研究的なところは受け継いだ感じですね。

CGW:子どもの頃は何をして遊んでいましたか?

藤田:野球とかサッカーとか、何かルールがあるものよりは、山とか川とかを駆け回るのが好きな子どもでした。ただ、家の近所にはそういった場所がなかったので、長期休暇で田舎に行ったとき、それまでの鬱屈を爆発させるような感じでしたね。

CGW:なるほど。

藤田:その思いが強すぎて、山の中で迷子になったりして。小学校低学年だったかな。近所の人に総出で探していただいて。あとで両親からこっぴどく叱られました。

CGW:外遊びがお好きだったんですね。

藤田:そうですね。ファミコンが発売されたのが中学2年生のときでしたが、あまり興味がなくて。電子ゲーム機なども友だちに時々、遊ばせてもらうくらいでした。

CGW:中~高校生のころはどんな感じでしたか?

藤田:基本はバンド系でした。当時「イカ天」(=『三宅裕司のいかすバンド天国』)とかが流行って、バンドブームだったんですよ。クラスに1つはバンドがあったくらいで。ちょうどあの世代だったので、みんなでイカ天に出ようとか、いろいろ話してましたね。

CGW:楽器は何を担当されたんですか?

藤田:ギターとベースとドラムと......。メンバーが足りないバンドに呼ばれていって、何でもやって。今でも音楽は好きですね。仕事はゲームプログラマーでしたが、表現となると、音楽の方が好きですね。

CGW:後にゲームプログラマーになるということは、理系が好きだったんですか?

藤田:数学は得意ではありませんでしたが、好きだったんですよね。幾何学の証明問題などが好きでした。補助線を1本引くと見え方が変わるというところがあって。博士論文で触れた水平思考にもかかわってくるんですが。

CGW:プログラミングなどのご経験は?

藤田:そのころ家庭用のテレビがモニタに使えるホビーパソコンが出てきて、ちょっとしたブームになったんですよ。あの頃のパソコンって、みんなBASICが入っていて、プログラムしてましたよね。自分もちょっとプログラムをしてみたら、わりと他の人たちよりできたんですよ。それで母親にねだって、ヤマハのMSXを買ってもらいました。音楽用のソフトがついていたので。

CGW:いろんな楽譜を入力して、自動演奏をさせて?

藤田:最初の頃はやっていました。ただ、あの頃のシーケンサって、しょぼすぎてすぐに飽きちゃって。あとはBASICでゲームをつくって。友達に遊んでもらって、面白がってもらえて。高校の頃ですね。

CGW:自分も小学生のときにPC-6001というホビーパソコンを買って、できることがあまりなかったので、PLAY文を使って音楽の自動演奏をさんざんやって、そこで飽きたくちです。

藤田:似ていますね。今日の話にも関係がありますが、道具が目の届く範囲にないと、あんまりつくる気がしないんですよね。当時はコンピュータで何かつくってみようと思えるぐらいの規模で、ちょうど良かったですよね。

CGW:映画、音楽、アニメなどには興味がありませんでしたか?

藤田:もっとお金をもっている友達はX68000をもってましたね。そこで、いろいろなゲームを遊んでいました。ただ、MSXはあまりそういったものがなくて(笑)。むしろ『トロン』や、『スター・ウォーズ』でもワイヤーフレーム的なアニメーションだとか。ああいった表現が好きでした。たぶん3DCGが好きだったんでしょうね。当時のゲームは2D表現が主流でしたから。ああ、だから同じ2Dでも『スペースハリアー』などは好きでした。

CGW:自分もフライトシミュレータが好きでした。

藤田:面白いですよね。没入感があって。

人工生命(ALife)を通して3DCGに触れる

CGW:高校卒業後、明治大学の農学部に進学されます。

藤田:ミーハーな話で。1987年に利根川 進博士がノーベル賞を受賞されて、バイオテクノロジーがブームになったんですよ。もともと山や川が好きで、農業に興味があったので、じゃあ農学部に行こうと。あんまり深く考えてなかったですね。なので、卒論も書かずに逃げてしまいました。卒業研究が必修科目ではなかったんですよ。卒業研究は大変な割に、4単位しかもらえないので、良いやって。

CGW:大学でプログラムなどは学ばれましたか?

藤田:学びましたが、まだFORTRANの時代でした。コンピュータルームが電算室と呼ばれていた時代です。ただ、当時としては先進的なワークステーションが導入されていて、学生でも予約すれば使用することができました。それなりに3DCGができて、Cのコンパイラも入っていました。そこでビビッときちゃったんですね。

CGW:おお、ビビッと。

藤田:確かワークステーションのスクリーンセーバーか何かが、ALife(Artificial Life、人工生命)だったんですよ。または、ALifeの研究者がいて、ALifeのプログラムか何かが、ワークステーションに入っていたのかな。当時ALifeを研究する手法として、3DCGに注目が集まっていました。それをみて物理的な生命ではなく、システムとしての「論理的な生命」に興味がわいたんです。

普通に考えれば、3DCGによる運動シミュレーションじゃないですか。ただ、そこに生命が感じられる瞬間がある。それって面白いなあと。

CGW:人工知能のようにトップダウンではなく、ボトムアップで運動が生成されている点がポイントですね。

藤田:そうそう。ちょっと後の話になりますが、PlayStation(PS)で『パペット ズー ピロミィ』(1996)や『パネキット』(1999)などのゲームが発売されたのを覚えていますか? ああいったアプローチです。

CGW:それにしても、どこでスイッチが入るかわからないものですね。

藤田:まったくそうですね。農学部に入ったのも、そこにワークステーションがあったのも、そこでALifeについて知ったのも、全部偶然なわけで。

CGW:そこから3DCGエンジニアになられた経緯というのは?

藤田:卒業して、何をするわけでもなく、しばらくフリーターをしていました。そんなころ、デジタルハリウッドが開校したんです。1994年のことですね。シリコングラフィックスが触り放題という話を聞いて、問い合わせてみたら、もう授業は始まっているけどプログラムコースに空きがあると聞いて、途中から入れてもらいました。本格的に3DCGを触り始めたのは、そこからですね。

CGW:これもまた、すごい偶然ですね。

藤田:しかも、当時Visual Science Lab (VSL)というCGプロダクションがあって、デジハリと関係性が深かったんですよ。なので、デジハリのプログラムコースに入学したら、いつの間にかVSLにあったモーションキャプチャのオペレーターとして働くことになってしまって。

CGW:絶妙ですね。そういう人たちが集まるところにいったら、それがきっかけで仕事を得たという。時代を感じさせますね。

藤田:まったくそうですね。VSLからソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント/SIE)に転職したのも、そのながれなんです。当時ゲーム業界は3DCGの人材を欲しがっていて、ちょっとでも3Dのプログラムができたり、ツールが触れたりしたら、引く手あまたでした。自分も、それまで1回もゲームなんてつくったことがなかったのに、それで転職できたという。

CGW:SCEではどのようなタイトルにかかわられましたか?

藤田:SCEに移ったのが1995年で、そこからPS2が出た頃、だいたい2000年くらいまでいました。『ACONCAGUA』(2000)というアドベンチャーゲームのチームにいて、モーションキャプチャのデータをスクリプトにながし込むためのツールをつくったり、ワークフローの整備をしていました。

『ACONCAGUA』パッケージ

CGW:何人くらいのチームでしたか?

藤田:15人くらいでしたね。まだ技術開発部などの概念がなくて、タイトルごとにツール開発などが行われていました。プロデューサーが同じタイトルであれば、ツールやプラグインなどの共有が行われることもありましたが、プロデューサーがちがうと、そうした共有はなかったですね。

CGW:PSではSCEからライブラリの提供もありましたが、結局は必要なツールを、みんな自分たちでつくっていましたよね。ツールの完成度のちがいでゲームのクオリティが決まるといったこともありました。その上ゲーム機が変わると、道具もつくり直しになって。特にPS2の立ち上げのときは、ポリゴンを1枚出すだけで大変で、皆さん苦労されていましたよね。

藤田:そうそう。それが嫌になって、任天堂の方に行こうと思って。それで2000年にハル研究所(以下、ハル研)に移籍したんです。ちょうどニンテンドーゲームキューブの立ち上げの時期で、後に任天堂の社長に就任された岩田 聡さん(故人)が陣頭指揮を執られていました。僕はハル研の東京スタジオで、ゲームキューブの発表に使用するデモをつくっていました。100体以上のポケモンを画面に表示させて、リアルタイムに動かすというもので、そのためのレンダリングエンジンというか、ゲームエンジン的なものをつくっていました。

CGW:懐かしいですね。僕もその発表会にいて、取材していました。

藤田:ああ、そうなんですね。会場ですれちがっていたかもしれませんね。

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ゲームエンジン制作を経て懐疑派になる

Profileプロフィール

藤田至一/Yoshikazu Fujita(東京国際工科専門職大学)

藤田至一/Yoshikazu Fujita(東京国際工科専門職大学)

東京藝術大学大学院 映像研究科メディア映像専攻 修了。博士(映像メディア学)。研究分野は創作活動におけるシステム開発手法。株式会社ソニーコンピュータ・エンタテインメント、株式会社ハル研究所などで、映像・ゲームの制作環境開発に従事。活動の場をメディア・アートにも拡大し、研究を続けている。CEDEC 2013登壇。東京藝術大学で非常勤講師を務め、現在に至る

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