今や地上波の番組演出で必要不可欠な存在となった3DCG技術。過去30年にわたり、率先して技術開発と番組への導入を進めてきたのがNHK(日本放送協会)だ。そうした中、教育番組の制作・演出などを通して3DCGの活用を推し進め、退局後も様々な分野で八面六臂の活躍を続けるクリエイターに、中谷日出氏(元NHK解説委員)がいる。そのキャリアをふり返りつつ、放送業界と3DCGの関係性について聞いた。

INTERVIEW&PHOTO_小野憲史 / Kenji Ono
EDIT_小村仁美 / Hitomi Komura(CGWORLD)、山田桃子 / Momoko Yamada

映画『東京オリンピック』が映像文化の原体験

CGWORLD(以下、CGW):今日はよろしくお願いします。元NHKの解説委員として著名な中谷さんですが、実際には1991年にNHK入局後、『いないいないばあっ!』(1996~)、『デジタル・スタジアム(デジスタ)』(2000~2010)など、様々な番組制作に携わられてきました。その過程で3DCGを用いた番組演出を積極的に活用されていますね。

また、2018年に退局された後も、Web番組『木曜新美術館』のナビゲーターや大学での教授職など、様々な分野でご活躍されています。今日はご自身のキャリアをふり返りつつ、放送業界における黎明期の3DCGと番組制作について、お伺いしていきたいと思います。

中谷日出氏(以下、中谷):はい、よろしくお願いします。

  • 中谷日出/Hide Nakaya
    東京芸術大学大学院美術研究科卒業後、1991年にNHKに入局。ロゴをデザインするなどブランディングでNHKの革新を牽引。また、解説委員(社会・科学・文化・芸術担当)としても活躍。芸術文化・ITなど多方面で縦横無尽に活動する傍ら、アーティストとして最先端のアート「映像絵画」を生み出す。2020年より東京国際工科専門職大学教授に就任

CGW:さっそくで申し訳ないんですが、ずっと気になっていたことがあるんです。「中谷日出」というお名前は、本名なんでしょうか?

中谷:いきなりすごいところからボールが飛んできましたね(笑)。はい、本名ですよ。

CGW:中谷さん世代だと珍しい名前だと思うんですが、どういった意味がこめられているんですか?

中谷:朝、日の出に生まれたんですよ。なので、中谷日出。8月9日の......ただ、それだけです。

CGW:そうなんですね(笑)。長年の謎が解けました。ちなみに、どちらのご出身ですか?

中谷:神奈川県です。伊勢原市という田舎町で育ちました。大山の麓のあたりですね。

CGW:ご両親はどういった方でしたか?

中谷:父は、普通の会社員。母は小学校の教師を経て専業主婦をしていました。

CGW:先生の子どもが先生をされているわけですね。

中谷:考えてみれば不思議ですね。そういえば、何年か前に国語の教科書向けに『アップとルーズで伝える』(光村図書/小4)という文章を書いたんですよ。そうしたら、友人から「うちの子どもが学校の宿題で教科書を音読して、『中谷日出』と言っている」と電話がかかってきたんですね。私としては嬉しくて、それを母に話したら、何故か!? 叱られました!

CGW:ええっ? どうしてですか?

中谷:僕は小学校のとき国語がとにかく苦手で、一番成績が悪かったんですよ。それで「あなたはね、国語があんなにできなかったのに、教科書に載るような文章を書いて......私は元教員として、許せない」って。褒められるかと思ったのに、叱られて、びっくりしました。まあ、母も半分冗談でしたけど......(笑)。

CGW:すごいハレーションですね(笑)。ちなみに、小さい頃は何をして遊んでいたんですか?

中谷:絵が好きで、あとは剣道くらいしかやってなかったですね。

CGW:絵を描くのはお好きだったんですか?

中谷:そうですね。ただ、無冠の帝王でした。結果的に芸術系に進むんですが、展覧会などで賞をとった経験は一度もなくて。もしかしたら、上手すぎて審査員の価値観に合わなかったんじゃないかって(笑)、勝手に思っています。

CGW:お母さんから褒められたとかも、ないんですか?

中谷:ないですね。父親が絵がわりと上手だったんですよね。それで、父親に絵を習いました。こんなふうに描けとかね。車で遠出して、そこで絵を描けって言われたこともありました。

CGW:子どもの頃に一番思い出深かったことは何ですか?

中谷:やっぱり東京オリンピックですね。大会もさることながら、市川 崑監督の映画『東京オリンピック』の映像が衝撃的でした。僕だけじゃなくて、当時の子どもたちはみんな、ことあるごとに見させられたんですよ。ハイスピードを駆使した撮影技術が特徴的で、選手がスローモーションが動く様が衝撃的でした。亀倉雄策がポスターでデザインしたような、何ともいえないアングルも印象的でしたね。それが「映像ってすごい」と思った原体験になっています。

中谷:それともうひとつがアニメ『鉄腕アトム』の本放送開始です。この2つは大きかったですね。

CGW:中学生・高校生のころは?

中谷:ふつうに公立の学校に通っていました。その頃から漠然と、デザインする人になりたいと思っていたんですけど、神奈川の郊外というか田舎でしたのでデザインやアートの情報が少なかったんです。でも美大に行けば何とかなるかと......。

CGW:大学院まで東京藝術大学(藝大)で学ばれたわけですが、藝大で一番の思い出はなんですか?

中谷:藝大って学ぶというよりモノを創る場だと思っていました。なので、とにかく自分で創るしかなかったですね。アンディ・ウォーホルが切り拓いたポップアートが人気を集めていたころで、同じようにシルクスクリーンで作品を創っていました。デザインという名のアーティストを目指していましたね。他にヨーゼフ・ボイスの社会彫刻という概念に感動しました。造形というのは、ただモノをつくるだけじゃなくて、社会自体も変えることができるんだって、妙にジャーナリスティックになったりしました。

CGW:上野の東京国立博物館に初めて『モナ・リザ』が来日したのが1974年でしたよね。会期中に150万人以上が入場して、たいへんな話題になりました。中谷さんが学生時代を過ごした1970年代の後半は、今みたいに世界の優れた芸術作品が日本の美術館に頻繁にやってくる時代ではなかったと思うのですが、どういう風なかたちで、そういった作品に触れられていたんですか?

中谷:僕が芸術に対して多感なころ、フルクサスという美術運動がありました。そこでオノ・ヨーコや、ナム・ジュン・パイクといった世界的なアーティストが、日本を舞台に様々な芸術活動を展開していて、アートに対する考え方を揺さぶったんですよね。そうした動きを面白いなと思って見ていました。デザイン的な視点もあったんですが、僕はアートだと思ってみていたんですよ。

そんな中、渋谷パルコでグラフィック展やパロディ展などが始まって。まさにフルクサスという芸術運動の風が、グラフィックというながれにつながっていって。そこから日比野克彦氏や田中紀之氏らが出てきたんですね。たまたま彼らは仲間だったので、一緒にいろいろな活動をしていました。当時は藝大旋風なんて言われたこともありましたね。

僕はその中でも後発隊だったので、その後についていった感じです。当時シルクスクリーンのパイオニアとして知られる岡部徳三さんという方がいて、その方の工房に研究生として通ったりしていましたね。当時は工房が神田にあって、藝大からも近かったんですよ。

CGW:今よりずっとアートに力があったんですね。

中谷:そうですね。特に若い人の表現が活発でした。後々僕がNHKで『デジスタ』を始めたのも、そういう思いがすごくあって。若い人をね。とにかく若い人の力で、新しい風を吹かせたいという思いがあって。そういったムーブメントをすごく大事にしたいという思いがありました。それで、NHKに入局後も、そういうことばかりやってましたね。

CGW:ちなみに大学院の修了制作では、どんなものを手がけられましたか?

中谷:やっぱりシルクスクリーンで、天井からたらっと作品をたらして。現代美術ですね。アートの大衆化というか。複製芸術にすごく興味をもっていました。

『人体』パート1を見てNHKに中途応募する

CGW:そこからNHKに入局された理由が気になります。

中谷:入局したのは1991年、平成3年なんですが、それまでフリーランスでアートディレクターをしていました。大学院を卒業して、自分で会社を立ち上げたんです。TVCMや広告業界で仕事をしつつ、ファッションメーカーとコラボして、ブランドをつくったり、タレントさんの衣装をつくったり。幅広い意味でのアートディレクターをしていました。

CGW:当時はバブル経済で、会社の偉い人が若い人に投資していた時期でしたね。

中谷:まさにそんな時代でしたね。自分の会社で何人かアシスタント的なデザイナーを仲間に、小さいながらも、いろいろな仕事をやっていました。

そんな頃、彼らと一緒にラーメン屋でテレビを見ていたら、NHKで『驚異の小宇宙 人体』(1989)という番組をやっていたんです。それを見た瞬間に、もういてもたってもいられなくなって。これだよって思って。それで3DCGに興味がわいたんです。そして会社のメンバーを集めて「NHKに入るから、会社を辞める」と宣言して、チーフに会社をあずけて、社長が辞めちゃいました。

www.nhk.or.jp/archives/digital/search/freeword/#keyword=%E4%BA%BA%E4%BD%93

CGW:ええっ? それは思い切りが良すぎるというか......。それまで3DCGについて何かご存じでしたか?

中谷:まったく知りませんでした。まったくというと語弊がありますが、その頃はまだ3DCGが今ほどメジャーではなかったので。専門誌もほとんどなかったですし。

CGW:かろうじて雑誌『スターログ』があったくらいで。まだVFXではなくSFXの時代でしたからね。NHKにはすぐに入局できたんでしょうか?

中谷:それがNHKに問い合わせたら、「申し訳ないけど、中途採用はしていない」と言われたんですよ。すごくショックで。会社を辞めちゃったし、何だよって。1週間くらいぶらぶらしていたんですよ。そうしたらあるとき、求人情報誌を見ていたら、「NHK 第一期 キャリア採用募集」という見出しが目に入ってきて。

CGW:すごい運命ですね。

中谷:いろいろなツテを頼って、3DCGができるのか、確かめたんです。そうしたら、これから3DCGが映像の世界で盛り上がっていくので、できるらしいとわかって。そこで3DCGを活かした番組をつくろうと思って、映像ディレクターという枠で応募したんです。そうしたら、運良く採用されて。

CGW:ちなみに、何人くらい応募があったんでしょうか?

中谷:採用されてみて、ゾッとするほどの高倍率でビックリしました! 何百倍!? って感じでしたね......。

CGW:難関と言われる藝大の油絵科でも50倍といわれますから、桁がちがいますね。

中谷:ただ、藝大出身だってことで、入局後に美術部に配属されて、デザイナーになったんです。ちょっとまってと。僕は映像ディレクターで、3DCGをやりたくて入局したんであって、デザイナーじゃないよって言ったんですけど、3ヵ月くらい放っておかれて。大河ドラマの美術スタッフなどの仕事をしていました。スタジオでリノリウムの床が見えないように砂を撒くのが、初仕事でしたね。

CGW:それまで会社の経営者をしていたのに、絵に描いたような下働きですね。

中谷:大道具さんに叱られたりしてね。ちょっとカチンと来たんですよ。それで採用担当の副部長に......後々、すごくお世話になる方なんですけどね。これじゃあ、ちょっと話がちがうと。それで最終的に、辞めるって言ったんです。そうしたら、強く止められて。ちょっとまてと。何とかしてあげるからっていわれて。しばらく我慢してました。

そんな中、3DCGを研究開発する部署ができて、そこに下っ端として入れてもらえました。『人体』のパート1制作に関わったNHKのプロデューサーが、局内でもそういった部署が必要だということで、立ち上げたんです。

その上、すごくラッキーなことに、MITメディアラボに研究員として派遣されました。NHKが最先端の3DCG技術をテレビ放送に採り入れるために研究員を派遣していたんです。そこで3DCGのイロハを学びました。もう30代の後半でしたが、刺激的でしたね。

CGW:映画『ターミネーター2』(1991)、『ジュラシック・パーク』(1993)といった具合に、まさにハリウッドでは3DCGが日の出の勢いでしたね。一方でセガから『バーチャレーシング』(1992)、『バーチャファイター』(1993)がリリースされて、日本ではゲームセンターで3DCGゲームが盛りあがっていました。そんな中、どういったことを研究されていたんですか?

中谷:MITメディアラボの地下室にあったCG研究室(通称:スネークピット)で、物理エンジンの基礎技術をテレビ放送にどんなふうに活かせるかについて、研究していました。物理エンジンといっても、ボールを落としたら、どんな風に床に跳ね返って、転がるかとか、まだそういった時代の話です。

また、それと共に人工知能にも興味がありました。MITでマービン・ミンスキー先生が健在のころで、なんとしても研究室に行きたいと思っていたら、たまたま娘さんのマーガレット・ミンスキーさんが同じCG研究室にいることがわかり、紹介してもらったりもしました。

CGW:30代後半で、そんなホットなところで勉強できるなんて、恵まれていましたね。社会人学生みたいなものですよね。

中谷:まさにそうですね。しかも学生とちがって研究員だから自由だし。お給料をもらいながら勉強させてもらった感じで。あまりに美味しすぎるって、みんなに言われました。その一方で、ちょうど『驚異の小宇宙 人体II 脳と心』(1993~1995)の企画が立ち上がり、アメリカから参画希望を出していました。

www.nhk.or.jp/archives/digital/search/freeword/#keyword=%E8%84%B3%E3%81%A8%E5%BF%83

CGW:すっかり3DCGの専門家になっていたんですね。

中谷:実際はそんなでもなかったんですけど、帰国したら、そんな目で見られるようになってましたね。ともあれ、そのまま『脳と心』の3DCG担当アートディレクターになって。そこで念願の3DCGに絡んだ番組制作ができました。

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『人体』パート2を経てNHKのCIを手がける

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『人体』パート2を経てNHKのCIを手がける

CGW:おお、それは良かったですね。入局したかいがありました。

中谷:本当にそうですね。これがまた、当時のNHKスペシャルってすごかったんですよ。人と予算をたっぷり使って。だいたい1本の番組をつくるのに、3年くらいかけるんですね。

CGW:そんな風に念願がかなって、どうされたんですか?

中谷:番組をつくり終わって、やることがなくなったので、採用担当の副部長......僕を3DCG開発室に転属させてくれた恩人ですね。その方に「申し訳ないですけど、もう思いが叶ったんで、NHKを辞めます」って言ったんです。

CGW:いやいや、それもいかがなものかと......。

中谷:まあそうですよね。ちょっと待てと。自分だけ美味しい思いをして、アメリカに行って帰ってきて、3DCGの番組をつくって、退局するって、いくらなんでもないだろう。何かもっとNHKに貢献しろって言われて。

「だってやることがないから。何をやったら良いんですか」って聞いたら、自分で考えてくれっていわれて。それでNHKのCI(コーポレートアイデンティティ)を思いついたんですよ。もともと広告畑だったので。

CGW:ああ、なるほど。ただ、NHKという巨大組織のCIを手がけるって、大変だったでしょう。

中谷:思いついたんだけど、その手立てがなくて、一週間くらいボーッとしていました。そうしたらある日、局の暗い廊下を歩いているうちに、「放送70周年記念事業事務局」と書かれた部屋を見つけたんですね。そこに飛び込みで入っていって、今でも忘れないですけど、「すみません。ここは何をするところですか」って聞いたんです。そうしたら偉い人がいっぱいいて。「それを今から考えるんだよ」って(笑)。

CGW:それは、すごい行動力ですね。

中谷:「すいません、僕はこれこれこういう人間で、こんなことを思いつきました。ついては提案させてもらっていいですか」って言ったら、「ちょうど全職員を対象に、この七十周年記念で何をするか企画を募集するところだったので、前乗りで君の提案を見よう」と言ってもらえたんですね。実際に一週間後、偉い人に面会をさせてくれたんです。

そこでA3横位置で18ページくらいの「NHKイメージアップ大作戦」というタイトルの企画書をつくってプレゼンをしたら、えらく受けて。これはいいと。せっかくなので、70周年記念でCIをやろうということになって。ただ、自分たちだと説明できないから、もっと偉い人たちに直接説明してくれって言われて、会長や理事の面々にプレゼンテーションをさせてもらえたんです。ここでも企画がえらく受けて。

CGW:いやー、展開が斜め上すぎて、ついていくのがやっとです。

中谷:ついてはCIプロジェクトを君に任せるから、やってみなさいって言われて。勝手にネーミングを「NEXT10」とつけて、次の10年を見つめるプロジェクトとして立ち上げて、局内でいろいろ展開をしたら、あれよあれよというまにプロジェクトが編成局に位置づけられて。偉い人がいっぱい来てくれて、会長直属プロジェクトになったんです。

ロゴマーク「3つのたまご」カラーバージョン(Wikipediaより)

CGW:実際、WikipediaのNHKの歴史にも、ロゴ作者として中谷日出の名前が記されています。

中谷:ロゴやビジュアルをつくるだけじゃなくて、今までのNHKの論理にはない世界観をつくって、視聴者に共感をもってもらえるように努力しました。今でいうデザイン思考ですね。例えば人事制度改革などもその1つでした。どの組織にも言えると思いますが、NHKにもいろんな課題がたくさんあったんです。そういった課題を掘り起こして、改革を進めていって。ここを、こんな風に変えたら、NHKがこんなになるっていうのを、全部やったんですよね。それでNHKがどーんと変わった!? んです。それが1996~7年のことですね。

CGW:ちょうどBS放送が始まったタイミングでしたね。これを機にNHKで、いろんなことが変わっていったんですね。

中谷:そうですね。その中心にいさせていただいて、とても光栄でした。『クローズアップ現代』『おはよう日本』など、主要な看板番組のタイトルロゴをリニューアルしたり、ハイビジョンのタイトルロゴをつくったり、そのころのNHKのビジュアルデザインは、かなりたくさん制作させてもらいました。スーパーインポーズを使った手描きのロゴではなくて、3DCGを使ったりもしました。外部のスタッフも、どんどん起用していきましたね。NHKの中では、そうとうインパクトがあったんですよ。勝手にやったと言われてますけどね。

CGW:そのころからサブカル系の雑誌で、教育テレビの特集が行われるようになりました。

中谷:今は「Eテレ」と言っていますけど、当時「ETV」という言い方に変えたんですね。それのアートディレクターを僕がやっていたんですよ。教育テレビ改革って言っていました。当時、CMディレクターとしてヒットを連作されていた佐藤雅彦さんにお願いして、CIキャンペーンを手伝ってもらいました。

CGW:それが後年、『ピタゴラスイッチ』(2002~)につながっていくわけですね。

中谷:そうですね。他に佐藤 卓さんにも参加してもらい、NHK ETVのビジュアルのクオリティーアップにつながりました。佐藤さんは、藝大の先輩なんですが、同い歳なんですよ。そんなふうに外部の力を入れて、番組づくりを変えていったんですね。そうしたら、教育テレビがどんどん変わっていって。佐藤 卓さんには『デザインあ』(2011~)もアートディレクターをしてもらっています。僕が企画を立ち上げて、佐藤 卓さんに育ててもらいました。

『デザインあ』公式ホームページより
www.nhk.or.jp/design-ah/

CGW:3DCGをやりたかった、そこに『人体』シリーズがあったというのは、良くわかります。ただ、それが終わったあとで、子ども番組や教育番組に活動の比重が高まっていった理由はなんですか?

中谷:3DCGの表現がコンシューマレベルになってきて、みんなが3DCGをやりはじめた結果、テイストがすごく似てきた時期があったんです。それで技術だけでなく、演出に興味をもったんですよね。技術だけだと、表現は成長していかないんです。ハリウッドでも、3DCGをただ使うんじゃなくて、どう使うかが、すごく重要になっていますよね。

ただ、NHKで演出というと、どうしても番組づくりになっていくんです。それで、番組づくりを通して、新しい演出のスタイルを考えていきたい、と思うようになりました。もっとも、結局プランニングだけで、演出はあまりできませんでしたが。

CGW:そのときに教育系のコンテンツは、何か都合が良かったんですか?

中谷:当時、一番仲の良かったNHKファミリー番組部のプロデューサー(中村哲志さん)がいて、その方が、局内で子ども番組づくりの神と言われていた人でした。その人とほとんど二人三脚で番組制作をしていて、その関係が大きかったですね。実は3DCGの番組を最初にやらせてもらったのも、その人のおかげでした。『音楽ファンタジー・ゆめ』(1992~1999)という番組で、オール3DCGでクラシック音楽を背景にした内容でした。

NHKアーカイブスより 
www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009020029_00000

CGW:ディズニー映画『ファンタジア』のような内容で、とても先進的ですね。

中谷:まさにそんな感じです。

CGW:絵を見ると懐かしいですね。当時はAmigaが出てきて、個人でも3DCGの映像制作ができる時代になってきました。

中谷:Amiga作家もいたし、いろんな人がいましたね。原田大三郎さんとか、今では大御所の方々ばかりでしたよ。そこから『天才てれびくん』(1993~)、『いないいないばあっ!』(1996~)とか、あとは『週刊こどもニュース』(1994~2010)もそうですね。他にもいろいろな番組をつくりました。

黎明期の3DCGと放送コンテンツ

CGW:プランニングというのは、具体的には何をするのですか?

中谷:何をつくるのか、誰と、どういうふうにつくるのか、そして1本目の演出ですね。そうした仕事を担当します。いわばディレクターですね。もっとも、当時はディレクターとアートディレクターを兼任していました。

CGW:まさに演出家なんですね。ディレクターとして中谷さんがいて、その一方でプロデューサーがいて、二人三脚というのはわかりやすいですね。ちなみにNHKは公共放送ということで、放送受信料を基に経営されていますが、民放や商業出版社と企画を建てる上でちがいはありましたか?

中谷:視聴率を気にしないことですね。みんなヒットさせようなんて、かけらも思ってないんです。良いものっていうか、つくらなければいけない番組、そして面白いものをつくろうっていう意識だけでやってたんですよね。僕自身もいろんな子ども番組をつくってきましたが、そんなに視聴率が上がると思っていませんでした。それが結果的に長寿番組になるんです。

CGW:ただ、「良いもの」の価値は視聴者ごとにちがいますよね。Aさんが面白いと思っても、Bさんにはつまらないってことは普通にあります。その場合、良さの基準はどこになるんでしょうか? 事前にペルソナをどのように設定するかが重要になりそうですが......。

中谷:おっしゃるとおりで、ペルソナに対しての影響度と共感度につきるんです。『いないいないばあっ!』だと0歳から1.5歳。『天才てれびくん』だと小学校中学年から高学年。こうしたペルソナに対して、きちんと番組が訴求できて、共感をもってもらえることが基準になるんです。それしか考えてないんですよ。それ以外の、例えば視聴率が何%にならないとダメよっていうのは、編成的にはあったんでしょうけど、僕らに対してはなかったですね。

CGW:その上でお聞きしたいんですが、主ペルソナである子どもたちだけでなく、大人が見ても「これは良いな」、「面白いな」という番組が増えてきた理由は何だったのでしょうか?

中谷:先ほども言いましたが、外部のクリエイターを入れたことですね。それでずいぶん変わりました。

CGW:NHKは民放とちがい、番組制作に外部の制作プロダクションを使わない、純血主義というイメージがありますが......。

中谷:かつては、そうしたところがあり、それを支えるためのしっかりとした番組論がありました。ただ、それだけでは、世の中の変化についていけなくて。ちょっと硬直化していたんですね。それをすごく感じていたので、外部から優秀な人に入ってもらいながら、局内に刺激を与えていきました。それにNHKは当時から、外部のクリエイターを尊重する雰囲気がありました。それも良いかたちにつながりました。

CGW:NHKの仕事をすると、必ずクレジットされるから良い、という話を聞いたことがあります。

中谷:しかも多くの場合、全国で放送されますからね。地方出身の方から実家が喜んでくれると、感謝されたことがあります。多少ギャラが安くてもいい、うちの母ちゃんが褒めてくれたっていう。

CGW:逆にCIが進むまでは、子ども番組というのはこういうものだという、ある種の固定観念があったのかもしれませんね。

中谷:僕がお世話になったプロデューサーの中村哲志さんは、とにかく変えたいといってましたね。「中谷ちゃん、何か考えてよ」と、いつも無茶ぶりされていたんです。「え? 考えていいの?」、「つくっていいの?」と聞いたら、「良いんだよ、オニキス買うからさ」って。当時、1億くらいしたかなあ。まだ、番組が採択されるか決まってないのに、いきなり億を超える3DCGワークステーションを買っちゃうプロデューサーって、すごいなあと思いました。

CGW:技術が好きなプロデューサーだったんですか?

中谷:技術というより、とにかく先見の明がありましたね。これからは3DCGを上手く使わないと番組が成立しない、子ども番組にそれを活かしたいと思われていて。だから僕が呼ばれたんだと思うんですよ。「君はアメリカで3DCGとかをやっていたらしいじゃないか」って。

CGW:子ども番組をつくることに抵抗みたいなものはありませんでしたか?

中谷:まったくなかったですね。それに当時の3DCGって、まだ今みたいにハイエンドな雰囲気はなかったんですよ。フォトリアルでもなかったし。

CGW:確かに。デフォルメされたキャラクターが出てきたりとか。

中谷:ちょうど岩井俊雄さんがAmigaで『ウゴウゴルーガ』をつくったり、そういう時代でした。僕も同じように、AmigaとX68000を買いました。それで3DCGをつくって遊びながら、上手くテレビ番組に使うことを考えていました。

そういえば当時、田中秀幸さんっていう元気の良い、Amigaのクリエーターがいたんです。『ウゴウゴルーガ』を岩井さんと一緒につくっていたクリエイターで、僕が学生時代に藝大受験のための予備校の先生をやっていたときの、教え子だったんですよ。そのつてで、いろいろ番組のCGをつくってもらいました。

CGW:少人数でつくれるし、そこまで高いクオリティを求められたわけでもなかったし、しかもNHKスペシャルとちがって、つくって放送、つくって放送と、イテレーションが早かったですし。今から考えると、やっぱり良い時代でしたね。

中谷:番組制作だけでなく、技術開発にもかかわっています。インタラクティブテレビ「SIM TV」(1993)はその1つで、MITメディアラボから帰ってきてすぐのことですね。まだインターネットが一般化する前に、NHKで電話回線を利用した双方向テレビを開発したんですよ。僕はプランナー兼アートディレクターとして、インタラクティブなテレビ向けに、コンテンツをつくりました。放送業界では初めてのことでした。

NHKアーカイブスより 
www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040304_00000

CGW:どんなことができたんですか。

中谷:当時は脳波に興味があったので、簡易的な脳波測定器を使ったコンテンツを考えました。脳波綱引きみたいなゲームを制作して、武蔵野美術大学と名古屋芸術大学をつないで実験したりしましたね。そこで田中秀幸さんを呼んできて、いろいろな3DCGをつくってもらいました。

CGW:一般的なアートやデザインとちがって、3DCGには技術という要素が入ってきますよね。藝大、またはアートが好きな方は、エレクトロニクスやエンジニアリングが不得手な方も多いと思うんですが、中谷さんはアレルギーはありませんでしたか?

中谷:僕の先輩に、後に藝大の大学院映像研究科で主任教授になった方がいて、その方が当時まさにバリバリの3DCG畑の方でした。当時SEDIC(西武デジタルコミュニケーションズ)という研究所があって、そこで3DCGの研究開発をされていたんです。SIGGRAPHで日本で初めて、河口洋一郎さんと共に入選されたアーティストですね。そういった方が近くにいたので、デジタルについて憧れをもっていましたね。

CGW:AmigaとX68000を買われたとのことでしたが、その前にはパソコンなどは買われましたか?

中谷:Macを買いました。たしかMacintosh SEだったと思います。一体型で、小型のやつですね。ただ、当時はまだ、そこまで高度なことはできなかったので、特に何をつくるでもなかったですけどね。そこからAmigaとX68000を買って、その次にMacintosh IIsiを買ったのかな。そこで3DCGをつくって、遊んでいました。

CGW:やっぱりビジュアルなんですね。シルクスクリーンにしろ、3DCGにしろ。

中谷:そうですね。その一方でメディアがアナログからデジタルになって。今は4K放送が普通になって、これからは8K放送の時代が来るって言われていますよね。僕が入局したころもハイビジョンというムーブメントがありました。今とまったく同じながれだったんですよ。

CGW:なるほど。

中谷:ハイビジョンになって、地デジになって、実際に世の中が変わりましたよね。同じようにNHK時代から新しい技術を、エンジニアと一緒になって研究開発したり、世に広めたりといったことをしてきました。前述した「SIM TV」だけでなく、テキスト台本から3DCGアニメーションを自動生成する「TVML(TV program Making Language)」(1996)の開発者である、林 正樹氏と一緒にコラボレーションもしました。実際にTVMLを使って番組をつくったりもしています。今も同じように、8K放送の広報活動のための番組制作にかかわっています。

CGW:局内での評価も高かったんですか?

中谷:そうですね。子ども番組ばっかりつくってるな、みたいな感じだったですけどね。みんな評価してくれてました。

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長野オリンピックの映像ディレクターを経て解説委員に

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長野オリンピックの映像ディレクターを経て解説委員に

CGW:そのままNHKに留まられる考え方もあったと思いますが、NHKを退局されるにあたり、何かきっかけはありましたか?

中谷:それも話すと長いんですが、1998年に長野オリンピックがありましたよね。東京オリンピックがあって、札幌オリンピックがあって、次に日本にオリンピックが来たら、絶対にオリンピックの映像演出をしたいと思っていたんです。開会式は自分の映像で始まるんだって、思い込んでいました。そうしたら長野でオリンピックが行われることになって。

長野オリンピック公式ホームページ

自分はNHKにいるんだけど、何とかして長野オリンピックの映像をつくりたい、どうしたら良いんだろう。「自分が開会式の映像演出をする」ことをゴールに、必要な要件を逆引きしていった結果、「NHKの映像ディレクターであること」を利用したらいいと思い至りました。

CGW:はいはい。

中谷:それで、いろんなつてを頼って、日本オリンピック委員会(JOC)に関係のあるNHKの偉い人に「映像をつくるにはどうしたらいいんでしょうか」と聞いたら、「わからないけど、オリンピック放送機構っていう、オリンピックの映像を管轄している機構にいろんな放送局の人が集まって、NHKの人が中心になってやっているはずだよ」と言われたんですよ。「あ、良いこと聞いちゃった」って。

それでまたまた飛び込みで、いろんなことをすっ飛ばして、当時オリンピック放送機構にいた、NHK出身の偉い人に相談したんです。そうしたら「今それをいろいろ考えていて、誰に映像演出を頼むか、非常に悩んでいると。僕の立場では中谷君にやってくれとは言えない。世の中にはオリンピックの映像をつくりたい人がいっぱいいるからね。ついては、中谷君に映像演出を頼める人を何人かラインアップほしい」と言われました。そこで8人ラインアップした中に、自分も入れたんです。

もちろん、いろいろ著名陣を並べましたよ。映画『東京オリンピック』にならって、当時有名だった映画監督も候補に挙げました。その上で「僕はその中でも一番、放送ということをわかっていて、誰よりもニーズに答えられると思う」とプレゼンテーションしたんです。そうしたら、中谷君に映像ディレクターを頼もうって、選ばれたんですよ。でも、それを上司に言ったら「ダメだ」って言われて。

CGW:ええ、なんでですか?

中谷:NHKの職員だから。民放も含めて、世界中に発信する映像だから、NHKの職員はダメだと言われて。「だったら辞めてやる」といったら、ちょっと待てと。出向してつくれば良いということになって。見事、長野オリンピックの映像に関することは全部、僕がつくらせていただけることになりました。

CGW:強キャラですね......。

中谷:その上JOCのデザイン委員にしていただいて、長野オリンピックのデザイン関連の仕事をさせていただきました。実際のデザインはアメリカのデザイン会社が行なっていますが、デザイン監修を担当しています。

そんなふうに長野オリンピックは思い出が深い大会でした。世界中に発信される映像を全部ディレクションさせていただいて、そこでも3DCGを活用しました。当時、東京・青山にあったPDIC(ピーディック)というCG制作会社のスタッフに総動員していただき、私のイメージを映像化してもらいました。

CGW:もう、今から20年以上も前の話ですね。でも、40代半ばでオリンピックの映像演出までやったら、やりたいことは全部、やり尽くした感じでしょう。

中谷:そうなんですよ。そうしたら、オリンピックが終わった瞬間にですね。「中谷君、君はね、もう散々好きなことを、自由にやっただろう。ついてはNHKにもっと貢献しなさい」って言われて。それで解説委員に任命されてしまいました。

CGW:コンテンツの制作ではなくて、説明する方なんですね。

中谷:ただ、解説委員だけだと、もやもやしてしまって。影でいろんな人を巻き込んで、やっぱり番組をつくりはじめました。

その頃から若いクリエイターを発掘して育てたいという思いが強くなっていって。それで『デジスタ』を1999年に立ち上げて、2000年に放送開始したんです。番組で様々な映像アーティストやメディアアーティストを発掘して、世に発信することができました。この番組から、幾多のトップクリエイターを育てることができて、非常に思い出深いですね。

NHKアーカイブスより
www.nhk.or.jp/archives/digital/search/freeword/#keyword=%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%82%BF

CGW:怒られませんでした?

中谷:怒られましたよ。何をやってるんだって言われて。でも企画だけじゃなくて、自分が出演すれば、解説委員だから良いってことになったんです。それで自分で番組をつくって、自分で出演するスタイルを確立しました。解説委員として番組を自らナビゲートをしたのは、そうした背景からです。いま自分が司会をしているWeb番組『木曜新美術館』も、そうした思いを受け継いでやっていますね。

『木曜新美術館』

技術だけでなく演出力をもったクリエイターを育てたい

CGW:その一方で、様々な大学で特任教授(非常勤)をされていますよね。教育にご興味があるんでしょうか?

中谷:ありますね。ずっと藝大受験の予備校で先生をやったり、多摩美術大学で先生をやったり、若い頃から機会を見つけて、いろいろな学校で芸術系の先生をしています。後進を育てたいんですね。

CGW:こういう言い方をするのもなんですが、常勤はともかく非常勤だと、講師業は労力の割に報われない面があるかと思います。どのあたりが魅力なんでしょうか?

中谷:生活はNHKの職員でしたので、ある程度は保証されていました。有給を使って講師業をしても、仕事に支障が出ない程度であれば、許されていました。実際NHKには、そういう人が多いんですよ。そのまま退局して、大学の先生になったりして。僕も同じキャリアですよね。

それに、非常勤だからこそ面白いってのもあったんですよ。常勤の先生は教授会をはじめ、様々な会議に出たり、業務を行なったりする必要がありますが、特任や非常勤だと、基本的には教えるだけですからね。今やっている京都大学大学院の特任教授もそうで、結構長く勤めていますね。

CGW:教えるという点では、解説委員と一緒ですね。解説委員を任命されたのも、何か才能を見出されたんでしょうか? 人に教えたり、説明したりするのが上手いという......。

中谷:どうでしょうか? もしかしたら、あったかもしれませんね。NHK時代からキーパーソンが必ず出現して、応援してくれたんです。解説委員になったときも、当時の解説委員長がとても良い人で、「中谷、お前は好きにやれ」と言ってくれました。

CGW:その後、2018年にNHKを退局されて、2020年4月から東京国際工科専門職大学の教授になられましたね。こちらは特任ではなく常勤の教員です。

中谷:本学のことは専修大学の文学部で教授をされている、福富忠和さんに教えていただきました。福富さんとは広告をやってる時代からの付き合いで、ずっと僕が教育に興味があることをご存じでした。そこで「中谷さんさあ、こういう話があるんだけど。専門職大学が新しくできるんだよね」って教えてもらえたんです。

僕は常勤でやるなら、新設校でやりたいと思っていました。もう大学の路線が決まっていたら、面白くない。新設校だったら、やりたいと言ったら、すぐに紹介してくれて。

東京国際工科専門職大学の開学発表会でパネルディスカッションのモデレータを務める中谷氏(左端)

CGW:専門職大学では、どんな授業をされているんですか。

中谷:今は1年生の前期で「企画発想法」の講義をやっていて、後期は「コミュニケーションと記号論」を担当します。どちらも演出に係わることなんですよ。

CGW:前者はアイデアのつくり方、後者はアイデアの伝え方ですね。

中谷:そうなんです。だから、本当に自分が教えたかったことの、ど真ん中で。ずっと番組制作を通して、自分がやってきたことなので、すごく楽しい。まさか、この科目を2つ受けもたせていただけるとは思わなかったので、この学校でしか学べない講義にしたいと思っています。

CGW:どんな学生を育てていきたいですか?

中谷:ゲーム業界でも映像業界でも、出口はいろいろだと思うんですが、やっぱり企画・演出力がある人間を育てたいですね。

CGW:演出力があるというのは、具体的にいうと?

中谷:技術偏重ではないクリエイターということですね。どうしても3DCGやゲームは、そのままでは技術偏重になってしまって、コンテンツとしての伸びが悪くなってしまうので。日本の教育が欧米に遅れているのは、そこなんですよね。実際にアルスエレクトロニカをはじめ、フランスの展示会の取材などを通して、現地の学校で演出力をものすごく教えていることを痛感しました。

実際、演出力の重要性は、これからの映像制作者には決して欠かすことができないと思います。この学校では、ゲームとかCGとか、エンターテインメントコンテンツをつくる人たちを育てるということなので、技術だけではない、企画・演出面についてしっかりと教えていきたいと思っています。

CGW:演出には「人の感情を、ある意図をもって動かす手法」という意味合いがありますね。どちらかというとアートではなく、デザインの領域の話です。実際にアートには、わかる人にだけわかれば良い、という側面がありますよね。一方で中谷さんは藝大のデザイン科という、アートとデザインの中間的な場所で学ばれました。アートとデザインの接点とは何でしょうか?

中谷:デザインの中にもアートがあるし、アートの中にもデザインが必要です。お互いに関連性があるんですよ。僕はグッドデザイン賞で20年以上も審査員を務めてきて、デザインの本質を自分でもわかってるつもりでいます。そうしたものを映像の世界にもち込むことが、すごく重要だと思っていて。まさにこれって、映像の記号化なんですね。これを講義で教えていきたいと思っています。

CGW:作家が作品にこめた価値や意味が、技術偏重だと上手く伝わらないことがあるんですね。

中谷:そうですね。若い人のクリエーションを見てても、記号化の基本的な意味を理解しないでつくっている場合が多くて。だからすごく表面的なんですよね。これじゃいかんなと、番組をずっとやっていて、思っていました。どうしてもアプリケーションをさわっていると、そっちが楽しくなってしまって。こんなこともできるんだ、あんなこともできるんだって、盛りまくった結果、みんな表面が一緒になってしまうという......。何ができるかではなくて、どんなふうに見た人に共感をもってもらえるかがポイントなので。

CGW:記号論という学問領域には、長い学問の蓄積があって、体系化されています。そこに最新のテクノロジーが組み合わさることで、さらなるアップデートが期待できそうですね。

中谷:そうですね。自分自身も記号化について、広告時代からずっと考えて、研究してきました。実際、広告は記号論のかたまりですからね。また、記号論を展開するうえで、メディアリテラシーという考え方があります。何を伝え、どう読み取ってもらうか。僕は、それをNHKの番組制作で、ずっと追求していました。こんなふうに仕事を進めるうえで、どんどん記号論の存在が大きくなっていったんです。

記号論を演出の中で、いかに上手く落とし込んでいくか。これは映画監督も同じですよね。そんなふうに記号論をベースとした、映画監督的な志向性を、エンターテインメントコンテンツのクリエイターであれば、もっていてほしい。

CGW:これからの授業が楽しみですね。

中谷:がんばります。

モーション・グラフィックス'98

CGW:お話を伺ってきて、中谷さんのキャリアの振れ幅がたいへん興味深いですね。特に、シルクスクリーンという静止画の世界から、映像という動きのある世界に移行された理由について、もう少し教えてください。カメラマンが典型的ですが、スチルとムービーは似て非なる世界で、どちらかに分かれる傾向がありますよね。そこを軽く飛び越えられたのが面白くて。

中谷:シルクスクリーンは複製媒体ですよね。複製媒体という意味では、雑誌も新聞もそうです。僕も学生時代は基本的に四角い画面の中で、モノをどういう風に配置して、メッセージを伝えるか、それをグラフィックデザインという世界で追求していました。それがあるとき、動き出したんです。それがモーショングラフィックスです。モーション(動き)+グラフィックス(図形、文字)という意味ですね。

モーショングラフィックスについて初めて知ったのは、MITメディアラボ時代でした。当時アメリカでモーショングラフィックスを使って、映画のオープニングタイトルなどをつくっている映像クリエイターがいました。後に映画『セブン』で有名になるカイル・クーパーなどですね。

それで帰国後にモーショングラフィックスを日本で紹介したいと思って、ナガオカケンメイさんと、菱川勢一さんと、3人でモーショングラフィックスの展覧会をやったんです。そこからすっかり、グラフィックが動くと格好良いという価値観に転身しました。

CGW:なるほど、ミッシングリングがつながりました。

中谷:当時は長野オリンピックとも絡んでいたので、スポーツで人体が描く軌跡を線で動かすといった表現に取り組みました。線で動くだけで、元になったスポーツを十分に感じさせるような表現がつくれるんじゃないかと思ったんです。そんなふうにモーショングラフィックスの研究をして、いろんなところで展覧会をしたら、結構人気が出ました。あれからモーショングラフィックスのブームが起きましたね。

CGW:他に若いクリエイターに対してメッセージがあればお願いします。

中谷:『デジスタ』のときに、若い人たちに新しい映像表現について教えたいと思って、書籍『新しい美術はじめましょ。』という本を執筆しました。そこで「3DCGも新しい美術なんだよ」っていう思いをこめたんです。同じように、若い人たちには新しい美術に取り組んでほしいと思っているんです。

CGW:今や、小学生でもゲームがつくれる時代ですからね。技術開発によって新しい表現が生まれても、技術がコモディティ化していくと、それだけでは差別化ができなくなっていきます。

中谷:そうなんですよね。そこで問われるのが演出力です。逆に枯れた技術でも、演出力がつくと、すごく面白くなっていくので。イノベーティブな演出力をつけてほしいなと思います。