>   >  変化の時代だからこそ、先を見据えた展開をしたい〜グリオグルーヴ坂本雅司氏インタビュー
変化の時代だからこそ、先を見据えた展開をしたい〜グリオグルーヴ坂本雅司氏インタビュー

変化の時代だからこそ、先を見据えた展開をしたい〜グリオグルーヴ坂本雅司氏インタビュー

1996年に創業した老舗3DCGスタジオの1つとして知られるグリオグルーヴ。同社が25年目を迎えた2021年、スタジオを高田馬場に移転すると共に、アニマとオフィスシェア&業務提携を行なった。「笹原組」をベースにもつアニマは、グリオグルーヴとも縁が深い3DCGスタジオだ。グリオグルーヴ代表で日本の3DCG業界の黎明期から活躍してきた坂本雅司氏に、これまでのキャリアをふり返りつつ、業務提携のねらいと今後の抱負などについて聞いた。


INTERVIEW_小野憲史 / Kenji Ono
EDIT_三村ゆにこ / Uniko Mimura(@UNIKO_LITTLE




映画の助監督から3DCGの世界に転身

CGWORLD(以下、CGW):3DCGの黎明期からご活躍されている坂本さんですが、実際はそれ以前から映像業界に関わられていますよね。

坂本雅司(以下、坂本):はい、実写映画の助監督からキャリアを始めました。にっかつ撮影所(現、日活)の企画部出身で、会社が助監督の求人を出していた最後の世代ですね。映画『リング』(1998)で監督を務めた中田秀夫や、ドラマ『ロングバケーション』(1996)などの脚本で知られる北川悦吏子と同期です。

CGW:ということは......、失礼ですが何年生まれですか?

坂本:想像してください(笑)。助監督は1年半で辞めてしまったのですが、その後もプロデューサーとして7年ほど会社にいて、最後の1年だけアメリカ支社に出向しました。当時、ロサンゼルスにっかつという現地法人があったんですね。そこで映画『ジュラシック・パーク』(1993)を観たのが、大きな転機となりました。

  • 坂本雅司/Masashi Sakamoto
    株式会社グリオグルーヴ代表取締役/プロデューサー

CGW:それはすごい巡り合わせですね。ちなみに、にっかつ撮影所に入られたきっかけは何でしたか?

坂本:映画が好きだったことですね。400倍くらいの倍率で正社員入社し、助監督をやりながら、次第に監督よりもプロデューサー向きだと考えるようになっていきました。ただ、当時......1980年代後半は邦画が本当にダメで、東宝ですらゴジラ映画くらいしか予算がかけられないほどでした。そのため、できる人からフリーになっていったんですね。自分もこのままでは食い詰めるので、映画とはちがう分野に行った方が良いかなと考えるようになっていきました。

そこで助監督を辞めて社長直下の部署でプロデューサーをやりながら、マルチメディア展開やドキュメンタリーなど、好きなことをやらせてもらったんです。フジテレビと、高城 剛がディレクションした『香港電脳コピー都市』(1990)や、当時問題となっていた自己啓発セミナーのドキュメンタリーなどをプロデュースしました。

CGW:なぜ監督ではなく、プロデューサーの道に進まれたんでしょうか?

坂本:いろいろな作品を並行してつくりたかったんです。監督だと1本の作品制作に集中せざるを得ないじゃないですか。ただ、自分自身は命を削って作品をつくるのではなく、クリエイターと作品を客観的に観るタイプです。自分の性格的にも向いているなと思いました。

CGW:そんなときに、アメリカで『ジュラシック・パーク』に出会ったんですね。

坂本:ビックリしました。そして、いつかこんな仕事ができたら良いなあと思いました。それまでにも、ちょこちょこと3DCGはやっていたのですが、本当に衝撃的でした。あまりに衝撃的だったので、アメリカで3DCGのワークショップに参加したほどです。

ただ、そのときに「向いていないな」と2時間で見切りをつけました。それ以上、PCの前にじっと座っていられないことがわかり「我ながら致命的だな」と。だったら3DCGを仕事にするにしても、クリエイターではなくオーガナイズする方に回った方が良いなと直感しました。

CGW:なるほど、そういった経緯があったんですね。

坂本:それと並行して、にっかつの経営が怪しくなっていき、二転三転します。その過程で自分も日本に戻されてそのまま退社して、フリーランスの映像プロデューサーになりました。まだ予算がそこそこ使えた時代で、民法の深夜枠では実験的な番組の企画が通っていました。NHKでは一足早くBS放送が始まっていて、多チャンネル化のながれが進み、私もNHK BSのテレビ番組をプロデュースしていました。伊藤穣一をナビゲーターにした、インターネットとテレビを融合させる『New Breed』(1995)シリーズなどです。

CGW:すでにバブル経済は弾けていましたが、まだまだ勢いがありました。バブルの残滓が残っていたというか。

坂本:そんなふうに忙しく仕事をしながらも、3DCGへの関心は続いていました。ただ、当時は3DCGの制作コストが高かったし、どうやってつくったら良いかわからないし、そもそも仕事になるかどうかもわからない。しばらくモヤモヤしていましたね。

CGW:その一方で次第に機材が安くなり、がんばれば個人でも3DCGが制作できる時代になっていくんですね。

坂本:日本初のCSデジタル放送として「パーフェクTV!」(1996)がスタートし、起ち上げのお手伝いをしたことがその後の人生を決めました。当時は目新しさもあり、3DCGのニーズが高まっていました。そこで、ある程度まとめて仕事を発注するから法人化してほしいと言われたのが、グリオ(Griot)設立につながりました。まだ国内の3DCGスタジオが20社弱くらいの時代でしたね。

CGW: なるほど、そこで起業ですか。ちなみにグリオという社名はどこからですか?

坂本:アフリカの「シャーマン」という家系の部族名から来ています。もともと無文字文化だったので、音楽で言葉や物語を受け継いでいました。現在でも数多くのグリオ族が存在し、音楽を奏でています。学生時代にアフリカへ渡って、フィールドワークをしていた頃に知りました。音楽を奏でるように、3DCGに魂を吹き込みたいなと思って社名にしました。



音楽レーベルのようにスタジオ起ち上げを支援

CGW:放送業界で多チャンネル化が進んだ一方で、ゲーム業界でも2Dから3Dへのながれが起きます。

坂本:1994年にゲーム機のPlayStationが発売されて、3DCGで制作したプリレンダームービーの需要が日本でグッと増えました。それまでテレビ番組のタイトルぐらいしかニーズがなかったところに、一気に仕事が来るようになったんです。

CGW:当時はプリレンダーの綺麗な3DCGムービーが入っていることで、ゲームの商品価値が高まった時代でした。もっとも、そうした技術をもっているゲーム会社は少なくて、外注に頼っていました。

坂本:グリオでも、いろいろなゲームの3DCGムービーをつくりました。そのながれで、実は『せがれいじり』(1999)というゲームをプロデュースしているんです。

CGW:エニックス(現:スクウェア・エニックス)からPlayStation向けに発売された、伝説のゲームですね。驚きました。

  • ◀『せがれいじり』(1999)

坂本:ゲームを遊ばない人に向けたゲームをつくることがコンセプトで、秋元きつねの独自の世界観を3DCGでゲーム化しました。もともと私自身は、ほとんどゲームをしないんですよ。だからこそ、そうした人たち向けのゲームがあっても良いだろうと。当時3歳だったうちの息子がナレーションを手伝いました。テレビ番組『おはスタ』とタイアップできたことで知名