CGWORLDの連載「Houdini Cook Book」でもお馴染みの、トランジスタ・スタジオ秋元純一氏。先日より新たに動画チュートリアル「Houdini COOKBOOK +ACADEMY」も開講するなど、Houdiniの布教活動に長く携わっている。そんな秋元氏にCGクリエイターとしての原点と、これまでの経歴をふり返ってもらった。濃密な内容のため、2週にわたって公開する。
INTERVIEW_小野憲史 / Kenji Ono
EDIT_小村仁美 / Hitomi Komura(CGWORLD)
PHOTO_弘田 充 / Mitsuru Hirota
「Houdini COOKBOOK +ACADEMY」公式サイト
<1>漫画もゲームも興味がなく、木工に没頭した少年時代
CGWORLD(以下、CGW):インタビューにあたってご経歴をチェックしまして、改めて、びっくりしたんですけども、1984年生まれなんですね。
秋元純一氏(以下、秋元):そうですね。よく驚かれます。もっと年上だと思っていたって。今年34歳になります。
-
-
秋元純一/Junichi Akimoto
株式会社トランジスタ・スタジオ 取締役副社長
2006年に株式会社トランジスタ・スタジオに入社。専門学校時代よりHoudiniを使用し続け、現在CGWORLD.jpにて「Houdini Cook Book」を連載中 www.transistorstudio.co.jp
blog.junichiakimoto.com
CGW:CG業界で1984年生まれというと、他にもご活躍されている方が多いですよね。
秋元:多いですね。前に同世代飲みがあって、相当な人数が集まったと聞いています。
CGW:ご出身は福島県なんですよね。
秋元:川内村です。東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機がある大熊町の、すぐ西側なんですよ。
CGW:震災のときは大変でしたね。
秋元:川内村は一部避難区域だったんですが、実家のあたりは避難準備区域で。わりとすぐに、元の生活に戻りました。
CGW:ご実家はどんな家庭だったんですか?
秋元:兼業農家ですね。親父は東京電力に務めていて、お袋は専業主婦で。僕は3人兄弟の長男で、下に妹が2人います。親父は本社勤務で、普段は東京に単身赴任していました。ただ、震災の日はたまたま青森に出張に行った帰りか何かで、現場にいたようですね。
CGW:子どもの頃はどんなお子さんでしたか? 何をして遊んでいましたか?
秋元:自分で言うのもはばかられますが、わりと特殊な子どもでした。みんながやっていたことに、あんまり興味がなくて。ゲームやマンガにまったく興味をもてなかったんですよね。僕らの世代だとスーパーファミコンが流行っていたんですが。
CGW:まさに『ドラクエ』『FF』の、ど真ん中の世代ですよね?
秋元:周りの友だちがみんな遊んでいるから買ってもらおうかな、くらいの感じで持ってはいましたが、あんまり遊ばなかったですね。マンガも全然読まなかったし。小学校の低学年以降になると、だんだん工作が好きになるんですよ。物をつくったり壊したりというのが好きだったんですよね。
CGW:プラモデルとかは?
秋元:買ってもらったらつくる、という程度でしたね。ガンプラをつくるよりは、木工で遊んでいました。
CGW:それは中学生の頃ですか?
秋元:いや、小学生の頃からやっていたと思いますよ。グラインダーで木を削るのが、すごく好きでした。庭に工房があって、木工加工機材が揃っていました。小さい家なら建てられるんじゃないかというくらいの装備がありましたね。親父のそばで、そういった工具を使って遊ぶのが好きでしたし、強制的に手伝わされていたところもありました。
CGW:そういう環境だったら、確かに他のおもちゃはいらないかもしれないですね。どんなものをつくりましたか?
秋元:親父が半分副業、半分趣味みたいな感じで、アクリル加工をしていたんですよ。それを手伝っていて、小学校高学年のころに3mくらいのL字型水槽をつくりました。それが最大級だったかな。親父はすごく器用な人だったので、何でもつくっていましたね。自動車の整備なんかも自宅でやっていました。車検に出す前にあらかた自分で直して、車検代を最低限に抑えていましたね(笑)。
CGW:今の仕事にも影響を受けていそうですね。
秋元:だいぶ受けていると思います。それに、当時はあまりエンタメ系の玩具を買ってもらえなかったんですよ。そのかわりに、顕微鏡や百科事典はポンと買ってもらえたんですよね。そういう家庭でした。マンガを読むくらいの感覚で、百科事典をずっと読んでいました。
CGW:今でもWikipediaを読んでいて、思わず時間を忘れてしまうとか。
秋元:まさに入眠剤がわりになっていますね。たまたま目についた項目から順にリンクを辿っていくこともあるし、その日に気になった項目を調べてみることもあるし。昔から知識欲だけは人一倍ありました。原因を解明しないと、気が済まない性格だったんですよ。これも親父の影響なんですが。
CGW:似たもの親子だ。
秋元:例えばホームセンターにクルマで買い出しに行くときの会話が、学校や友だちの話じゃなくて「自転車のダイナモみたいなものを自動車のタイヤに付けたら、電気自動車が実現するんじゃないだろうか?」とか。一方で、親父も電力屋だから、発電効率の話をもち出してきて室内灯を点けるくらいならできるんじゃないかとか、本気で答えを返してきてくれて。
CGW:お父さんも楽しかったのかもしれませんね、そういう会話ができることが。
秋元:嫌いじゃなかったと思いますよ。ただ、僕はすぐ物を分解しちゃう癖があって、それについてはいつも怒られていましたね。ネジがあると、とにかくネジ回しで開けちゃうというか......。分解しても元通りに戻せれば良かったんですが、子どもだから戻せない。
CGW:何を分解しましたか? 時計とか?
秋元:扇風機とか、もう少し大きなものでした。最大ではクルマを分解しましたね。祖父の家にお袋が昔乗っていたクルマがあり、「これ壊していいよ」って言われて。いとこと2人で毎週末行って壊していました。
CGW:どの程度まで壊せるものなんですか?
秋元:祖父の家にもひと通り工具が揃っていたので、とりあえずネジというネジを外そうとはしましたね。限界はありましたが、とりあえずラジエータは外しました。中を開けたら古いオイルが出てきて、「うわっ、汚ねえ」といって遊んでいたのを覚えています。
次ページ:
<2>ILMを目指してアメリカ留学を志望するも......
<2>ILMを目指してアメリカ留学を志望するも......
CGW:中学校、高校は地元ですか?
秋元:ずっと地元ですね。高校はいわき市の磐城高等学校でした。実家から通うには家を朝6時くらいに出なければいけなかったので、下宿していましたね。
CGW:その学校に進学した理由は何でしたか?
秋元:実は中学生の頃からアメリカの高校に留学するつもりで、準備を進めていたんです。英会話の塾に行ったり、留学先を選定したり、かなり本格的でした。ただ、中学3年生の、いよいよ決めなきゃいけないくらいの時期になって、方針転換しちゃうんです。当時できた彼女と別れたくなくて(笑)。
CGW:それは無理ですね。子どもですもんね。
秋元:そうなんですよね。ただ、それを親父に言ったら、まあがっかりしまして。親父は僕をアメリカに行かせたかったんですよ。日本の高校なんか行ってもしょうがないからと。ただ、そんな風に応援してくれていたのは、親父だけだったんですよね。お袋も、祖父母も全然乗り気じゃなかった。
CGW:なるほど。
秋元:ただ、そこで「磐城高校に進学する」といえば、みんな納得して丸く収まったんです。それくらい有名な進学校だったんですね。
CGW:ちなみに今まで、CGはおろかエンタメのエの字も出てこないという......。
秋元:そうですね。じゃあ、ちょっとその辺の話もしましょうか。なぜアメリカに留学したかったかというと、CGをやりたかったからなんですね。実は小学校高学年の頃から、もう将来はCGをやるって決めていたんですよ。
CGW:それはまた早いですね。
秋元:子どもの頃から映画がすごく好きでした。マンガ、ゲームは興味がわきませんでしたが、映画だけは、小さい頃からずっと観ていたんです。それも洋画全般。よく母方の祖父の家に週末泊まりに行っていて、祖父が録画したテレビの洋画番組を日中に観ていました。一方で実家にもたまたまレーザーディスクと、3色式の大きなプロジェクタがあったんですよね。そこでも映画を観ていて、そのうちの1作が『ターミネーター2』(1991)だったんですよ。しかも、その中に特典でメイキング映像が入っていたんです。
CGW:なるほど、それがきっかけで。
秋元:メイキングの大半はSFXに関するものでしたが、T-1000のCGメイキングも少し収録されていて。すごいなと思ったんです。同じように当時TV番組でもハリウッド映画のメイキング特集をやっていたんですね。それらの中でILMの名前を知って、絶対にILMに行こうと。ここに行けば、こういう仕事に携われるんだと。中学校で完全に進路が決まっていました。
CGW:だからこそ、アメリカに留学したいと思われていたんですね。
秋元:そうです。そんな話を親父としていたら、「じゃあ、アメリカの高校に行ったらいいじゃないか」という話になって。実は、親父も昔アメリカを放浪していたことがあったんですよ。
CGW:まだ1ドルが360円の時代にですか。
秋元:そうなんです。アメリカとカナダをフラフラしていたらしくて。「アメリカは良い国だ」とずっと言っていました。実際、うちの親父は川内村という閉鎖的な環境が大嫌いで、本当は戻ってきたくなかったらしいんですね。
CGW:なるほど。
秋元:東京で別の仕事もしていましたし。でも、時代が時代だし、長男だし、「跡を継げ」と祖母に言われて渋々戻ってきて。それで機械関係の仕事を始めたんです。最初は原発関連の下請け的な設備会社をやっていて、経営側にも入っていたみたいですね。そこはバブルのあおりで倒産したんですが、その少し前にヘッドハンティングにあって、東京電力に移りました。
CGW:面白いご経歴ですね。
秋元:だからこそ、田舎の閉鎖的な文化がすごく嫌いで。お前はこんなところに戻ってくるな、家を継ぐな、出ていけと。「表に出ろ」とすごく言われていた。だから、そんなもんなのかなくらいに、本当にずっと思っていたんです。
CGW:ちなみに、お父さんの学歴は?
秋元:農業高校中退です。だから全然、機械屋じゃないんです。
CGW:農業高校を中退してアメリカ放浪ですか。一体どんな家なんだという。
秋元:結構いろいろやってきた人なので、妙に物知りでしたね。また、親父はめちゃくちゃロジカルな人だったんですよね。だから、よく親子でディベートをしました。
CGW:どんな話題が多かったんですか?
秋元:「お前がなぜ今、怒られているのかを述べよ」、みたいな(笑)。「この野郎」って怒られることもありましたが、理論的に叱られることの方が多かったですね。それに、「お前は何年の何月何日に同じことを言われてるよな?」って具合に、日付まで覚えているほど頭が良い人だったので、もう到底かなわないと思っていました。そんな風に、ちゃんとディスカッションをして、完全に理解して閉幕しないと、説教が終わらないんです。そんな感じだったので、変わってはいましたね。
次ページ:
<3>初めて触れたCGソフトは「trueSpace」
<3>初めて触れたCGソフトは「trueSpace」
CGW:そんな感じの家庭で育ったら、学校の勉強なんて幼稚に思えたでしょう?
秋元:全然面白くなかったですね。
CGW:勉強しなくても点取れちゃうわけだし。
秋元:まあ、それでも効率的に勉強はしていましたけどね。中学校くらいだったら、テスト前にちょこちょこっと勉強するくらいでこと足りましたし。それに学校でも自由にやりたかったので、だからこそ有無を言わせない点数を取るという。
CGW:先生から嫌われるタイプですね。
秋元:あんまり好かれてなかったと思いますね。ただ、ずっとテストは学内1位だったんですよ。ところが高校に入って、めちゃくちゃ落ちぶれました。実家を出たことで、もう遊びほうけちゃって。
CGW:そういう自由奔放な秋元少年だったとはいえ、CGに対する興味は続いていたんですか?
秋元:中学時代から本格的にCGは続けていました。小学校高学年の頃にWindows 95が出て、親父が東芝のPCを買ってきたんです。CPUはまだ無印Pentiumで、メモリも32MBくらいで、インターネットもつながっていませんでしたが。ただ親父は仕事の関係でCADを使えたんですよね。それで安いCGソフトを会社経由で買ってくれたんです。それが「trueSpace 2」というソフトだったんですよ。それを使ってプリミティブなモデリングをしたり、レンダリングをしたり。親父のプレゼン資料用のCGを作ったりもしていましたね。
CGW:そんな風にCGを触りはじめて、一方ではテレビの洋画劇場が好きで、そこからILMの名前を知って、アメリカ留学を希望して......とつながっていったわけですね。
秋元:そうですね。だから、ずっとILMは頭にありました。ちょうど中学校に入ったあたりから、CG雑誌もいろいろと買っていたんです。映画『トイ・ストーリー』(1995)が公開されて、CG雑誌の創刊ブームだったんですね。その中の1冊で『PROJECT-WIVERN』が特集されていて、青山敏之さんと北田清延さんがフィーチャーされていたんですよ。それを見たら2人ともLightWaveでがっつり映像をつくられていて、衝撃を受けました。
秋元:trueSpaceでは、自己発光というか、グローが上手くできなくて。『PROJECT-WIVERN』のような表現をやろうと思っても、難しかったんですよ。多分、そういった機能自体がなかったんだと思うんですよね。それで、こういう作品をつくりたいと思っていたら、ちょうど親父がどこかからLightWaveを手に入れてきたので、いろいろと触って遊んでいました。その前後から、親父と自作PCを作ることにも夢中になったり。
CGW:日本のPCとCGの歴史を少年時代から体験されていますよね。
秋元:そうですね、タイミングが良かったんですよね。
CGW:下宿にもPCを持って行っていたんですか?
秋元:最初の下宿には持って行かなかったですね。ただ、事情があって下宿を移ってからは、家から取り寄せて触っていました。学校は本当に寝に行くだけでしたね。そのうち、周りが釣られて寝始めるので、ずっと美術室にいさせられて、そこで寝ていました。授業に出なくても出席扱いにしてやるからと。
CGW:公立校ですよね?
秋元:そうなんですが、当時はバンカラな校風が残っていたんですよね。実際、僕の1年下から共学になったくらいで、それまではずっと男子校でしたし。毎朝、担任の先生が下宿まで起こしに来てくれて、一緒に登校していました。それで、そのまま美術室に行って放課後まで寝て。何かの病気なんじゃないか、というくらい良く寝てました。良い先生でしたね。
CGW:今だと、ちょっと難しいかもしれないですね。
秋元:僕のクラスは運動部の生徒と落ちこぼれの巣窟だったんですよ。僕もなぜ卒業できたのかわからないくらいで。テストも0点以外取ったことがないと思うんですよね。テスト中も寝ているので。名前を書かずに白紙の答案を出しても、よだれの跡があるから秋元だ、と(笑)。
[[SplitPage]]<4>専門学校でHoudiniと出会う
CGW:高校卒業後の進路はどう決めたんですか?
秋元:最初は美大に行くつもりだったんですよ。というのも、磐高に来たのはいいけれど、どうやってCGの道に進めばいいかわからなくて。いろいろ調べたら、美大に行けばグラフィックができることがわかって。ただ、東京藝術大学はセンター試験があるので無理だなと。
CGW:0点ばっかりだし。
秋元:それでも私立で入試科目が限られていたら何とかなるんじゃないかなと、多摩美術大学や武蔵野美術大学といったところを受けたんですが、案の定、全滅で。絵は良かったと思うんですけどね。親父は「浪人して美大行けよ」と言っていましたが、一刻も早くCGをやりたかった。まだCGをやれないのかと思って悩んでいたら、専門学校の存在に気付いて、3月頃に全部決めました。
CGW:なぜ東京マルチメディア専門学校に決められたんですか?
秋元:昔、新聞に記事が出ていたんですよ。スコット・ロス(※)が日本の専門学校とコラボするといった話で。親父が「こんなのあるんだ」と、話していたのを覚えていたんですね。スコット・ロスといえば、映画『タイタニック』(1997)やジェームズ・キャメロンともゆかりがあるすごい人だよなあ、この人が学校やるんだったら、そこに行ったほうがいいじゃんと。さらによくよく調べてみるとインターンシップ制度があって、Digital Domainにも行けるらしい。それで決めたんです。
※スコット・ロス/Scott Ross
ILMのゼネラルマネージャーなどを歴任し、1993年にスタン・ウィンストン、ジェームズ・キャメロンと3人でDigital Domainを創立。1998年には東京マルチメディア専門学校の名誉技術顧問に就任する。当時ハード、ソフト両面のアドバイスや教材の監修、特別講話などを行なっていた
CGW:何年制だったんですか?
秋元:当時は映像科という3年生のコースがあり、そこに進みました。通常の実習設備とは別に「あすかデジタル工房」という場所があり、そこはDigital Domainと同じ体制を採っていたんですよ。そこでは当時からLightWave、Houdini、Mayaなどが使えました。
CGW:そこでHoudiniに触れるわけですね。
秋元:自分は入学前からすでにLightWaveをがっつりやっていたんですが、専門学校では基礎から始めるので、全部知っていることばかりだったんですよね。それで、最初のうちは地元に戻って遊びほうけていました。ただ、お金もそんなに続かなくて、すぐに東京に戻ってきて。仕方がないから専門学校に行ってみたら、だんだん知らないことが増えてきたんですね。そうこうしているうちに、Houdiniの授業が始まって。
CGW:Mayaはやらなかったんですか?
秋元:MayaとHoudiniは選択授業だったんですよ。当然、大半がMayaを選んだんですね。ただ、Houdiniはマイナーだけど、ハリウッドではわりと使われているツールだという記事を読んで、Houdiniに決めました。
CGW:それはなぜですか?
秋元:いまだに授業でも話すんですが、音楽で言うなら、ロックならその他大勢であっても、ボサノバだったらてっぺん取れるかもしれないぞと。そのくらい分母が少ない方を選ぼうと思って。ただ残念なことに、学校でHoudiniをちゃんと教えられる人がいなかったんですよね。LightWaveの先生がHoudiniも勉強しながら教えるくらいの感じでした。
CGW:わかります。
秋元:もう自習でやっていくしかない、ってことで、いろんな人に聞きつつ、ツールを弄っていたんです。そうしたら、当時Digital Domainに在籍していて、ビザの関係で一時帰国されていた坪川拓史先生(現・Digital Domain FXスーパーバイザー)の授業が始まったんですよ。Houdiniをバリバリやっていて、めちゃくちゃロジカルな人だったんです。その先生の授業で、もう完璧にハマりました。
CGW:それは良かったですね。
秋元:はい。めちゃくちゃ面白かったんですよね。Houdiniってこういう考え方をするんだと、本当に明確にわかったときで。もう、そこから先はHoudiniしかほぼ頭にありませんでした。
CGW:プロシージャル的な考え方が性に合っていたんですね。
秋元:それもありましたし、先生自身の教え方も面白くて。授業で出された課題に対してこっちが何か突っ込んだ質問をすると、ずっと無言で延々と考え始めるんです。でも、学生もいつも2人くらいしか出席していなくて、ほぼマンツーマンでやっているようなものだったから、余計に楽しかったですね。
CGW:ぜいたくな授業ですよね。Digital Domainのトップクリエイターが先生で、学生が2人って。
秋元:なので、それまではわりと遅刻がちだったんですが、坪川先生の授業だけは完璧に出席していたと思います。その後、先生がまた海外に戻ってしまって、3年生のときはうちの社長の宮下善成が講義に来るようになって。
CGW:そこでトランジスタ・スタジオとの接点ができるわけですね。
<後編に続く>
後編は6月15日(金)公開予定です。
-
「Houdini COOKBOOK +ACADEMY」
Houdiniを基礎から楽しく学ぶオンライン講座
公開日程:毎週金曜日公開(予定)
価格:1,200円(税込)
※第一回「Houdiniの基本概念とインターフェイス」は無料公開中
受講対象:Houdiniをこれから学びたい方、Houdiniの勉強で挫折した方など
cgworld.jp/special/houdinicookbookacademy